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一木喜徳郎 いちき きとくろう

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美術人名辞典の解説

一木喜徳郎

政治家。法学博士。静岡県生。地方制度研究のためドイツに留学後、東大教授を兼ねながら行政官として活躍。山県有明・大隈重信西園寺公望らの信任を得る。官中政治家として官内相も務めたが、二・二六事件後は一切の官職を辞した。昭和19年(1944)歿、78才。

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デジタル大辞泉の解説

いちき‐きとくろう〔‐キトクラウ〕【一木喜徳郎】

[1867~1944]憲法学者・政治家。静岡の生まれ。ドイツ留学後、東大教授。のち、文部・内務・宮内各大臣、枢密院議長などを歴任。天皇機関説が右翼から攻撃され、二・二六事件後政界から引退した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

一木喜徳郎 いちき-きとくろう

1867-1944 明治-昭和時代前期の法学者,政治家。
慶応3年4月4日生まれ。岡田良一郎の次男。内務省にはいり,ドイツに留学後,母校帝国大学の教授。憲法学者として天皇機関説をとり,弟子に美濃部(みのべ)達吉がいる。明治33年貴族院議員,のち第2次大隈内閣の文相,内相となる。枢密顧問官。宮内相。枢密院議長。昭和19年12月17日死去。78歳。遠江(とおとうみ)(静岡県)出身。

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世界大百科事典 第2版の解説

いちききとくろう【一木喜徳郎】

1867‐1944(慶応3‐昭和19)
公法学者,官僚,政治家。男爵。静岡県出身。岡田良一郎の次男で,一木家の養子となる。帝国大学法科大学卒業後内務省に入り,地方制度研究のためドイツ留学。帰国後1894年東京帝国大学教授兼務。天皇機関説を提唱。第1次桂太郎内閣法制局長官,第2次桂内閣で内務次官に就任。この間貴族院勅選議員。その後,第2次大隈重信内閣の文相,内相を歴任し,17年から枢密顧問官。日本の地方制度の育成者の一人で,山県有朋の信任を得た。

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大辞林 第三版の解説

いちききとくろう【一木喜徳郎】

1867~1944) 政治家・法学者。静岡県生まれ。東大教授。岡田良平の弟。第二次大隈内閣の文相のち内相となり、その後も宮内相・枢密院議長などを歴任。天皇機関説を唱え、二・二六事件後すべての官職から引退。のち大日本報徳社社長。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

一木喜徳郎
いちききとくろう

[生]慶応3 (1867).4.4. 遠江
[没]1944.12.17. 東京
明治・大正・昭和期の法学者,政治家。掛川藩士岡田良一郎の二男,のち一木家養子。1887年帝国大学法科大学を卒業後内務省に入ったが,1890年休職しドイツに私費留学。帰国後の 1894年から法科大学教授を内務省と兼勤し,アカデミズム憲法学を確立した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

一木喜徳郎
いちききとくろう
(1867―1944)

明治から昭和時代の憲法学者、官僚政治家。慶応(けいおう)3年4月4日、静岡県掛川(かけがわ)の岡田良一郎の次男に生まれ、のち一木家を継ぐ。1887年(明治20)帝国大学法科大学を卒業、内務省に入る。1890年ドイツに留学、帰国の翌年1894年から内務書記官兼任のまま法科大学教授となり、天皇機関説の立場から国法学を講じ、門下から美濃部達吉(みのべたつきち)らが輩出した。1900年(明治33)貴族院議員に勅選され、法制局長官、内務次官などを歴任。1914年(大正3)第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣の文部大臣、翌年内務大臣となる。1917年枢密顧問官、1924年枢密院副議長、翌年宮内大臣となり、1934年(昭和9)枢密院議長となる。この間元老重臣グループの一員として重きをなしたが、翌年の天皇機関説事件で右翼から攻撃され、1936年枢密院議長を辞任した。昭和19年12月17日死去。[由井正臣]
『野口明編『一木先生回顧録』(1954・一木先生追悼会) ▽家永三郎著『日本近代憲法思想史研究』(1967・岩波書店)』

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世界大百科事典内の一木喜徳郎の言及

【桜田門事件】より

…1932年1月8日天皇が代々木練兵場でおこなわれた陸軍始観兵式の閲兵をおえ,宮城へ帰る途中,桜田門の警視庁前にさしかかったところ,群衆のなかから爆弾を投げつけられた。爆弾は一木喜徳郎宮内大臣の馬車に軽微な損傷をあたえただけで,その後方の天皇の馬車には何の異常もなかった。爆弾を投げたのは朝鮮人の土木労働者李奉昌で,日本で差別や虐待をうけたことを憤り,上海で朝鮮独立党の金九から爆弾を渡され,天皇を暗殺しようとして失敗したものであった。…

【地方改良運動】より

…日露戦争後,多大の戦費による財政破綻の立直しと,社会矛盾の激化,講和への不満などで動揺した民心を,国家主義で統合することを目ざして内務省主導で進められた官製運動。桂太郎内閣の内務大臣平田東助,内務次官一木喜徳郎らにより推進され,1909年以降全国の町村吏員を集めて各地で開催された地方改良事業講習会にちなんで,地方改良運動と呼ばれた。 平田ら国家官僚は,日露戦争勝利後の日本は欧米列強に伍して経済戦を戦わねばならず,したがってそれに耐えうる国内体制の整備・強化を早急に実現することが戦後の課題であると規定した。…

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