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金井延 かないのぶる

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

金井延
かないのぶる

[生]慶応2(1865).2.1. 遠江,見附
[没]1933.8.13. 大磯
経済学者,社会政策学者。東京大学卒業後,ドイツおよびイギリスに留学,A.ワーグナー,G.シュモラーなどに師事。 1890~1925年母校の教授として経済原論および社会政策を講義。国家主権を重視する歴史派経済学の日本における創始者として講壇経済学の主流を占めた。

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デジタル大辞泉の解説

かない‐のぶる〔かなゐ‐〕【金井延】

[1865~1933]経済学者・社会政策学者。静岡の生まれ。東大教授。ドイツ経済学の紹介、社会政策の普及に努め、社会政策学会の設立に尽力した。著「社会経済学」。

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百科事典マイペディアの解説

金井延【かないのぶる】

明治・大正期の社会政策学者。静岡県出身。東京帝大卒業後ドイツに留学し,G.シュモラー,A.ワーグナーらに学び,帰国後1890年−1925年東京帝大教授を務める。
→関連項目七博士建白事件社会政策学会高野岩三郎

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

金井延 かない-のぶる

1865-1933 明治-昭和時代前期の経済学者。
元治(げんじ)2年2月1日生まれ。ドイツに留学して,ワーグナーらにまなぶ。明治23年(1890)帝国大学教授となる。ドイツ歴史学派の学説を紹介,また労働者保護政策を主張して社会政策学会を創立した。対露強硬論七博士のひとり。学士院会員。昭和8年8月13日死去。69歳。遠江(とおとうみ)(静岡県)出身。東京大学卒。著作に「社会経済学」「社会政策」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

金井延

没年:昭和8.8.13(1933)
生年:慶応1.2.1(1865.2.26)
明治期を代表する経済学者。静岡県出身。東大卒。帝大法科大学教授,同大学経済学部の初代学部長。退官後は日本勧業銀行参与理事につく。明治20年代には和田垣(謙三)・金井時代,明治30年代には金井・松崎(蔵之助)時代をきずき,東大での草創期の経済学を構築した重鎮中の重鎮。学風は社会政策学派のそれで,ワグナーやシュモラーの学問と思想を導入した功績は大きい。社会政策学会を組織し,社会問題,経済問題に積極的に発言するなどして,この学派を日本の経済学の主流に育てあげた。8人の子供にめぐまれたが,それぞれの名に経・国・済・民・正・義・勝・利の字を用いたことで知られる。娘国子は河合栄治郎の妻。<参考文献>河合栄治郎『明治思想史の一断面』,モーリス=鈴木『日本の経済思想』,『東京大学百年史 部局史1』

(藤井隆至)

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世界大百科事典 第2版の解説

かないのぶる【金井延】

1865‐1933(慶応1‐昭和8)
明治・大正期の社会政策学者。静岡県生れ。東京帝大文科大学卒業後,ドイツに留学し,G.シュモラー,A.ワーグナーらに学ぶ。1890年帰国とともに東京帝大法科大学教授。日本におけるドイツ新歴史学派経済学の先駆者で,97年設立の社会政策学会の創設者の一人である。時局問題について積極的に発言し,金銀複本位制度の採用,工場法の制定などを主張した。戸水寛人ら七博士の一人として日露開戦を訴え,中国東北部への帝国主義的進出を説いた(七博士建白事件)。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

金井延
かないのぶる
(1865―1933)

明治・大正時代の経済学者。元治(げんじ)2年2月1日遠江(とおとうみ)国(静岡県)見付町に生まれる。1885年(明治18)東京大学文科大学を卒業、翌年ドイツに留学、約3年にわたり、クニース、コンラート、シュモラー、ワーグナーら新歴史学派の巨頭について経済学、社会政策学を学んだ。ついでイギリスに移り、約1年間社会問題の調査研究を行い、90年11月帰国。同年同月帝国大学法科大学教授に任ぜられ、1925年(大正14)の停年退官まで経済学を講じた。その間1896年には桑田熊蔵らと社会政策学会を創設し、中心的指導者として活動、自由主義と社会主義の双方を批判するとともに、国家による労資階級の対立調和の必要性を強調し、労働組合の育成、工場法の制定にも努力した。また、日露戦争直前の1903年には七博士の一人として対露強硬外交を主張する建議書に参加した。河合栄治郎(金井の次女国子の夫)は、彼を国家主義者にふさわしい国士であり古武士であると称している。彼の主著『社会経済学』(1902)は、イギリス自由主義経済学とドイツ歴史学派経済学を折衷したものであるが、当時日本人の手になる本格的経済原論書として天野為之(ためゆき)のそれと並ぶものであった。ほかに主著として『経済学研究法』(1912)があげられる。昭和8年8月13日没。[多田 顯]
『河合栄治郎編著『金井延の生涯と学蹟』(1939・日本評論社)』

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世界大百科事典内の金井延の言及

【社会政策】より

…社会政策は資本主義体制の内部に生まれたものであって,その容認によってはじめて体制が維持されているという限りでは,資本主義体制の維持に役立ってはいるが,もともと社会政策が資本主義体制とは異質な社会的理念の産物であるからには,社会政策的獲得物が積み重ねられていけば,ついには資本主義体制を揚棄しうる道が開けてくると主張されたのである。 日本では,1890年代に金井延などによって新歴史学派の社会政策論が導入され,96年に社会政策学会の創立をみたが,大恐慌によって資本主義各国で社会政策が危機に陥った1930年代に社会政策に関する新たな理解が展開されることとなった。その代表的な理論家である大河内一男(1905‐84)によれば,近代の社会政策は,土地から切り離された貧民の浮浪化の抑止と労役場制度を中心とする労働者の育成策など資本主義の生成期にとられた労働力創出のための政策を前提とし,(1)幼少年・婦人などの過度労働を防止するための工場法,疾病・失業などの生活上の事故に対する保障としての社会保険など,労働力の継続的再生産を維持するための労働力保全策,(2)労働運動の勃興にともない,これを資本主義体制のうちに包摂していくために展開されてくる労働組合の法的承認と統制を中心とする産業平和策,の二つの類型をもっている。…

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