金井延(読み)カナイノブル

デジタル大辞泉 「金井延」の意味・読み・例文・類語

かない‐のぶる〔かなゐ‐〕【金井延】

[1865~1933]経済学者・社会政策学者。静岡の生まれ。東大教授。ドイツ経済学の紹介、社会政策の普及に努め、社会政策学会の設立に尽力した。著「社会経済学」。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「金井延」の意味・読み・例文・類語

かない‐えん【金井延】

  1. 経済学者。法学博士静岡県出身。東京帝国大学卒業、のち同大学教授。ドイツ歴史学派の経済学、社会政策学を導入日露戦争にはいわゆる「七博士」の一人として、対露強硬意見を進言した。主著「社会経済学」。慶応元~昭和八年(一八六五‐一九三三

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「金井延」の意味・わかりやすい解説

金井延
かないのぶる
(1865―1933)

明治・大正時代の経済学者。元治(げんじ)2年2月1日遠江(とおとうみ)国(静岡県)見付町に生まれる。1885年(明治18)東京大学文科大学を卒業、翌年ドイツに留学、約3年にわたり、クニースコンラートシュモラーワーグナーら新歴史学派の巨頭について経済学、社会政策学を学んだ。ついでイギリスに移り、約1年間社会問題の調査研究を行い、90年11月帰国。同年同月帝国大学法科大学教授に任ぜられ、1925年(大正14)の停年退官まで経済学を講じた。その間1896年には桑田熊蔵らと社会政策学会を創設し、中心的指導者として活動、自由主義と社会主義の双方を批判するとともに、国家による労資階級の対立調和の必要性を強調し、労働組合の育成、工場法の制定にも努力した。また、日露戦争直前の1903年には七博士の一人として対露強硬外交を主張する建議書に参加した。河合栄治郎(金井の次女国子の夫)は、彼を国家主義者にふさわしい国士であり古武士であると称している。彼の主著『社会経済学』(1902)は、イギリス自由主義経済学とドイツ歴史学派経済学を折衷したものであるが、当時日本人の手になる本格的経済原論書として天野為之(ためゆき)のそれと並ぶものであった。ほかに主著として『経済学研究法』(1912)があげられる。昭和8年8月13日没。

多田 顯]

『河合栄治郎編著『金井延の生涯と学蹟』(1939・日本評論社)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「金井延」の意味・わかりやすい解説

金井延 (かないのぶる)
生没年:1865-1933(慶応1-昭和8)

明治・大正期の社会政策学者。静岡県生れ。東京帝大文科大学卒業後,ドイツに留学し,G.シュモラー,A.ワーグナーらに学ぶ。1890年帰国とともに東京帝大法科大学教授。日本におけるドイツ新歴史学派経済学の先駆者で,97年設立の社会政策学会の創設者の一人である。時局問題について積極的に発言し,金銀複本位制度の採用,工場法の制定などを主張した。戸水寛人ら七博士の一人として日露開戦を訴え,中国東北部への帝国主義的進出を説いた(七博士建白事件)。社会政策論においては,社会有機体説にもとづいて社会政策の国家的意義を強調し,社会政策と帝国主義との相互補完的な関係を説き,また社会主義を個人主義の系譜を継ぐものととらえて批判した。第1次大戦後は東大法科大学から分離・独立して経済学部を発足(1919)させることに尽力し,その初代学部長を務めた。なお彼は河合栄治郎の岳父である。主著《社会経済学》(1902)。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「金井延」の意味・わかりやすい解説

金井延【かないのぶる】

明治・大正期の社会政策学者。静岡県出身。東京帝大卒業後ドイツに留学し,G.シュモラー,A.ワーグナーらに学び,帰国後1890年−1925年東京帝大教授を務める。自由主義経済学に反対し,ドイツ新歴史学派の立場に立つ経済学・社会政策を講じ,社会有機体説にもとづいて社会政策の国家的意義を主張,金銀複本位制度の採用,国家による上からの労働者の保護などを提唱した。日露戦争の際,戸水寛人ら七博士の一人として開戦論を首唱したことが知られているが,彼によれば社会政策は帝国主義と相互補完的な関係にあるものだった。主著《経済学の近況と講壇社会主義》《社会経済学》。
→関連項目七博士建白事件社会政策学会高野岩三郎

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

20世紀日本人名事典 「金井延」の解説

金井 延
カナイ ノブル

明治・大正期の経済学者 東京帝国大学教授。



生年
元治2年2月1日(1865年)

没年
昭和8(1933)年8月13日

出生地
遠江国磐田郡三川村(静岡県磐田市)

学歴〔年〕
東京帝国大学文学部卒

学位〔年〕
法学博士

経歴
明治19年から23年にかけてドイツに留学し、帰国後は東京帝大法科大学教授となり、同大経済学部の初代学部長を務める。29年社会政策学会の創立に加わり、国家の労働者保護政策によって労資協調をはかって社会主義を阻止することを主張する。東大退官後は日本勧業銀行参与理事を務めた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「金井延」の解説

金井延

没年:昭和8.8.13(1933)
生年:慶応1.2.1(1865.2.26)
明治期を代表する経済学者。静岡県出身。東大卒。帝大法科大学教授,同大学経済学部の初代学部長。退官後は日本勧業銀行参与理事につく。明治20年代には和田垣(謙三)・金井時代,明治30年代には金井・松崎(蔵之助)時代をきずき,東大での草創期の経済学を構築した重鎮中の重鎮。学風は社会政策学派のそれで,ワグナーやシュモラーの学問と思想を導入した功績は大きい。社会政策学会を組織し,社会問題,経済問題に積極的に発言するなどして,この学派を日本の経済学の主流に育てあげた。8人の子供にめぐまれたが,それぞれの名に経・国・済・民・正・義・勝・利の字を用いたことで知られる。娘国子は河合栄治郎の妻。<参考文献>河合栄治郎『明治思想史の一断面』,モーリス=鈴木『日本の経済思想』,『東京大学百年史 部局史1』

(藤井隆至)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金井延」の意味・わかりやすい解説

金井延
かないのぶる

[生]慶応2(1865).2.1. 遠江,見附
[没]1933.8.13. 大磯
経済学者,社会政策学者。東京大学卒業後,ドイツおよびイギリスに留学,A.ワーグナー,G.シュモラーなどに師事。 1890~1925年母校の教授として経済原論および社会政策を講義。国家主権を重視する歴史派経済学の日本における創始者として講壇経済学の主流を占めた。社会主義運動に反対し,日露戦争には開戦論を主張。社会政策学会の発足に力を尽し,事実上の会長的役割を果していた。主著『社会問題』 (1892) ,『社会経済学』 (1902) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「金井延」の解説

金井延 かない-のぶる

1865-1933 明治-昭和時代前期の経済学者。
元治(げんじ)2年2月1日生まれ。ドイツに留学して,ワーグナーらにまなぶ。明治23年(1890)帝国大学教授となる。ドイツ歴史学派の学説を紹介,また労働者保護政策を主張して社会政策学会を創立した。対露強硬論七博士のひとり。学士院会員。昭和8年8月13日死去。69歳。遠江(とおとうみ)(静岡県)出身。東京大学卒。著作に「社会経済学」「社会政策」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

山川 日本史小辞典 改訂新版 「金井延」の解説

金井延
かないのぶる

1865.2.1~1933.8.13

明治・大正期の経済学者・社会政策学者。遠江国生れ。東大卒。ドイツに留学し歴史学派の理論を学ぶ。1890年(明治23)帰国直後に帝国大学法科大学教授となり,ドイツ社会政策学にもとづき,労資協調,国家による労働者保護を主張。社会政策学会の結成,帝国学士院会員としての活動,東大経済学部の創設(初代経済学部長)のほか,工場法の必要や日露開戦論,社会主義批判など社会的発言も活発に展開した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「金井延」の解説

金井延
かないのぶる

1865〜1933
明治・大正前期の経済学者
遠江(静岡県)の生まれ。東大卒業後,1886〜90年ドイツに留学。帰国後東大教授となる。ドイツ流の社会政策学を日本に紹介し,社会政策学界の創立に尽力した。主著に『社会政策汎論』『社会問題』『社会経済学』など。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「金井延」の解説

金井 延 (かない のぶる)

生年月日:1865年2月1日
明治時代;大正時代の社会政策学者。法学博士;東京帝国大学教授
1933年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の金井延の言及

【社会政策】より

…社会政策は資本主義体制の内部に生まれたものであって,その容認によってはじめて体制が維持されているという限りでは,資本主義体制の維持に役立ってはいるが,もともと社会政策が資本主義体制とは異質な社会的理念の産物であるからには,社会政策的獲得物が積み重ねられていけば,ついには資本主義体制を揚棄しうる道が開けてくると主張されたのである。 日本では,1890年代に金井延などによって新歴史学派の社会政策論が導入され,96年に社会政策学会の創立をみたが,大恐慌によって資本主義各国で社会政策が危機に陥った1930年代に社会政策に関する新たな理解が展開されることとなった。その代表的な理論家である大河内一男(1905‐84)によれば,近代の社会政策は,土地から切り離された貧民の浮浪化の抑止と労役場制度を中心とする労働者の育成策など資本主義の生成期にとられた労働力創出のための政策を前提とし,(1)幼少年・婦人などの過度労働を防止するための工場法,疾病・失業などの生活上の事故に対する保障としての社会保険など,労働力の継続的再生産を維持するための労働力保全策,(2)労働運動の勃興にともない,これを資本主義体制のうちに包摂していくために展開されてくる労働組合の法的承認と統制を中心とする産業平和策,の二つの類型をもっている。…

※「金井延」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android