富井政章(読み)トミイマサアキラ

デジタル大辞泉 「富井政章」の意味・読み・例文・類語

とみい‐まさあきら〔とみゐ‐〕【富井政章】

[1858~1935]民法学者。京都の生まれ。フランス法学派の中心的存在。民法典起草者の一人。東大教授・貴族院議員・枢密顧問官などを歴任。著「民法原論」など。

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精選版 日本国語大辞典 「富井政章」の意味・読み・例文・類語

とみい‐まさあきら【富井政章】

  1. 法学者。京都出身。法典調査会主査委員として現行民法典を起草。大正八年(一九一九)に設置された臨時法制審議会の改正案起草委員長を勤めるなど、民法界で重きをなした。著書「民法原論」など。安政五~昭和一〇年(一八五八‐一九三五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「富井政章」の意味・わかりやすい解説

富井政章
とみいまさあきら
(1858―1935)

民法典起草者、民法学者、フランス法学者、ドイツ法学者。「まさあき」との読みも広く使われている。京都に生まれ、東京外国語学校に学ぶ。1877年(明治10)フランスに留学し、83年帰国。東京大学教授となり、民法の講座を担当。旧民法旧商法施行については延期論を唱え、延期法案成立後は、穂積陳重(のぶしげ)、梅(うめ)謙次郎とともに法典調査会主査委員となり、現行民法典を起草。1919年(大正8)臨時法制審議会の民法親族編・相続編改正調査の主査委員長、28年(昭和3)同改正案起草委員長。その著書『民法原論』は、今日においても起草者の意思を知るうえで貴重な文献となっている。

淡路剛久


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改訂新版 世界大百科事典 「富井政章」の意味・わかりやすい解説

富井政章 (とみいまさあき)
生没年:1858-1935(安政5-昭和10)

民法学者。穂積陳重,梅謙次郎とともに現行民法典の起草にあたった一人。東京外国語学校在学中の1877年フランスへ留学,83年法学博士学位を得て帰国した。85年東京大学教授となり,民法講座を担任し,1902年辞任した。その後,和仏法律学校(後の法政大学)の学長や,枢密顧問官などを務めた。また,19年に設置された臨時法制審議会において,改正調査会主査委員長,改正の起草委員長として重きをなした。フランス法学にくわしかったが,むしろこれに対し批判的で,ドイツ法学を高く評価し,明治後期から始まるドイツの影響を受けた民法学隆盛の先駆者的地位を占めている。著書としては,旧民法の解説書である《民法論綱人権之部》(1890),《民法論綱財産取得編》(1891)のほか,現行民法についての体系書,《民法原論》3巻(1903-29。未完)があり,起草者の見解を知るのに,貴重な資料となっている。
旧民法 →法典論争 →民法
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「富井政章」の意味・わかりやすい解説

富井政章
とみいまさあきら

[生]安政5 (1858).9.10. 京都
[没]1935.9.14. 東京
明治・大正・昭和期の民法学者。1877年東京外国語学校卒業後フランスに渡り,リヨンの法律学校に学んだ。1883年帰国,1885~1918年東京大学教授として教鞭をとった。この間,1893年から法典調査会主査委員として,梅謙次郎穂積陳重とともに民法典の起草に参与。貴族院勅選議員,帝国学士院(→日本学士院)会員,帝室制度審議会委員,宮内省御用掛,議定官など要職を歴任。1918年枢密顧問官(→枢密院)となり,1926年男爵叙爵。法学教育の面では和仏法律学校(→法政大学教頭,京都法制学校(→立命館大学校長としても貢献し,また 1919年から死没まで,臨時法制審議会民法親族編,相続編改正調査の主査委員を務めた。主著『民法論綱』(1890~93),『民法原論』(1893~96)。(→旧民法民法典論争

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「富井政章」の解説

富井 政章
トミイ マサアキラ


肩書
枢密顧問官,東京帝国大学名誉教授

生年月日
安政5年9月10日(1858年)

出生地
京都

学歴
京都仏語学校 東京外国語学校卒

学位
法学博士〔明治21年〕

経歴
明治10年東京外国語学校に学び、のちフランスのリヨンに渡る。16年帰国して、17年東京大学教授に就任。24年貴院議員に勅選される。36年東京帝大名誉教授。梅謙次郎らと民法典を起草。日露開戦時には対露強硬論を唱えた七博士の1人となる。帝国学士院会員、帝室制度審議会委員をつとめ、大正7年枢密顧問官及び議定官に親任される。15年男爵。また梅謙次郎と和仏法律学校(法政大)経営に当たり、明治33年には京都法政学校(立命館大)初代校長もつとめる。著書に「民法原論」「刑法論綱」「民法論綱」など。

没年月日
昭和10年9月14日

資格
?国学士院会員

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「富井政章」の解説

富井 政章
トミイ マサアキラ

明治〜昭和期の民法学者,男爵 東京帝国大学名誉教授;枢密顧問官。



生年
安政5年9月10日(1858年)

没年
昭和10(1935)年9月14日

出生地
京都

学歴〔年〕
京都仏語学校,東京外国語学校卒

学位〔年〕
法学博士〔明治21年〕

経歴
明治10年東京外国語学校に学び、のちフランスのリヨンに渡る。16年帰国して、17年東京大学教授に就任。24年貴院議員に勅選される。36年東京帝大名誉教授。梅謙次郎らと民法典を起草。日露開戦時には対露強硬論を唱えた七博士の1人となる。帝国学士院会員、帝室制度審議会委員をつとめ、大正7年枢密顧問官及び議定官に親任される。15年男爵。また梅謙次郎と和仏法律学校(法政大)経営に当たり、明治33年には京都法政学校(立命館大)初代校長もつとめる。著書に「民法原論」「刑法論綱」「民法論綱」「日本立法資料全集」など。

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朝日日本歴史人物事典 「富井政章」の解説

富井政章

没年:昭和10.9.14(1935)
生年:安政5.9.10(1858.10.16)
明治大正期の民法学者。京都聖護院侍富井政恒の子。東京外国語学校卒業後フランス・リヨン東洋博物館勤務の余暇にリヨン大学で法学を学ぶ。明治17(1884)年東大教授,24年貴族院勅選議員,25年民法典実施に反対の大演説をした。梅謙次郎,穂積陳重と民法典を起草,商法,民事訴訟法の起草にも主査委員長として指導的役割を果たした。ドイツ法にも詳しく,ドイツ民法研究の先駆者で,対露強硬論を唱えた七博士のひとり。大正7(1918)年枢密顧問官,常設国際仲裁裁判所裁判官,15年男爵となる。大正期以後も家族法改革問題に関し,調査委員長,改正草案起草委員長を務めた。その著『民法原論』は,梅の『民法要義』とともに,立法者の民法論として重要な文献である。<著作>『刑法論綱』『民法論綱』《Code civil du Japon》

(長尾龍一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

百科事典マイペディア 「富井政章」の意味・わかりやすい解説

富井政章【とみいまさあき】

民法学者。京都市出身。フランス留学後,1883年東大教授。民法典論争では慎重論をとった。穂積陳重,梅謙次郎とともに現行民法典を起草。長く民法学界の長老として活躍した。対ロシア強硬論を唱えた七博士の一人(七博士建白事件)。主著《民法原論》。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「富井政章」の解説

富井政章 とみい-まさあきら

1858-1935 明治-昭和時代前期の法学者。
安政5年9月10日生まれ。東京大学教授,帝国大学法科大学長,京都法政学校(現立命館大)初代校長を歴任。梅謙次郎らと明治民法の起草にあたる。日露開戦論をとなえた「七博士」のひとり。貴族院議員。昭和10年9月14日死去。78歳。京都出身。東京外国語学校(現東京外大)卒,リヨン大卒。著作に「民法原論」など。

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367日誕生日大事典 「富井政章」の解説

富井 政章 (とみい まさあき)

生年月日:1858年9月10日
明治時代-昭和時代の法律学者。東京帝国大学教授;枢密顧問官
1935年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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