三浦命助(読み)みうら・めいすけ

朝日日本歴史人物事典 「三浦命助」の解説

三浦命助

没年:元治1.2.10(1864.3.17)
生年:文政3(1820)
嘉永6(1853)年の盛岡藩百姓一揆指導者。陸奥国上閉伊郡(岩手県)栗林村百姓,屋号東の分家(本家と同居)の長男に生まれた。父は定助(六右衛門とも称す)。10歳前後に遠野町で四書,五経を習う。17歳ごろから秋田藩領院内銀山に出稼ぎをし,19歳で帰村,1歳年上のまさと結婚し,領内で穀物や海産物などの荷駄商いを始めた。体格頑丈のため藩主の駕籠担ぎを命じられそうになったが肥りすぎで免れる。33歳ごろまでに3男2女の親となり,本家当主の死で東の家の事実上の当主になる。嘉永6年栗林村集会に参加,北方の野田通から押しだした百姓一揆(通称三閉伊一揆)の頭人のひとりとして働いた。一揆成功のため田野畑村太助らに協力し,11月帰村,村の老名役になる。一揆成就の謝礼に仙台領塩竈神社へ代参し額を奉納,また他の頭人と遠野へ行き,一揆に力添えしてくれた盛岡藩重臣遠野弥六郎に謝辞を述べる。 帰村後村役人交替をめぐる村方騒動にまきこまれ,藩に拘留されたが脱走し,出家姿で仙台領へ出奔,義乗と名乗る。仙台領で僧名明英となり,当山派修験寺東寿院で修験として村に住んだ。本山の免許を得るため京都へ向かい,五摂家二条家の家来格になる。安政4(1857)年,大小を帯し家来を連れ二条殿御用の絵符を立て盛岡藩領に入ろうとし,捕らえられて盛岡で入牢。牢内から経文や妻や子供への意見を書きつらねた帳面を4冊仕上げて家族に送る。元治1(1864)年牢死。命助の帳面は『獄中記』と総称されているが,そのなかで多様な作物や加工品をつくって家族で売り広めることや,子供たちが手に技術をつけ貨幣取得を心掛けることなどを勧めている。また自分が殺された場合は江戸へ出て豆腐屋を営むことを勧めたが,しだいに藩主批判が強まるにつれ,蝦夷地の松前に移住して公儀の百姓になることを勧めた。命助を主人公にした『南部義民伝』がのち著された。<参考文献>森嘉兵衛『南部藩百姓一揆の指導者三浦命助伝』,深谷克己『南部百姓命助の生涯

(深谷克己)

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改訂新版 世界大百科事典 「三浦命助」の意味・わかりやすい解説

三浦命助 (みうらめいすけ)
生没年:1820-64(文政3-元治1)

江戸末期の百姓一揆の指導者。奥州盛岡藩領上閉伊郡栗林村の肝煎筋の分家長男として生まれる。子供のころ遠野町に出て四書五経を習い,17歳から秋田藩院内銀山へ稼ぎに出る。父の死により19歳で帰村,まさと結婚,長男定助以下,男児3人,女児3人を得る。20歳のときから太平洋岸沿いの三閉伊通(さんへいどおり)と呼ばれる農漁村を回って,農産物や海産物の荷駄商いをおこなう。1853年(嘉永6)1万余の百姓が藩政を批判,藩主の交替まで求めて隣領へ逃散し仙台藩主へ越訴(おつそ)した三閉伊一揆に加わり,指導者の一人として活躍。終息後,村の老名(おとな)役についたが村内の紛争をきっかけに捕らえられ,逃走して仙台藩領で修験者として暮らす。やがて上京して二条家の家来となり,その使者の行装で盛岡藩へ入ろうとして見破られ,入牢。家族に言い送る4冊の帳面や経巻を書いたが,獄中6年8ヵ月にして牢死した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三浦命助」の意味・わかりやすい解説

三浦命助
みうらめいすけ
(1820―1864)

南部藩の「嘉永三閉伊(かえいさんへい)通り一揆(いっき)」(1853)の指導者。陸奥(むつ)国閉伊郡栗林村(岩手県釜石(かまいし)市)の肝煎(きもいり)の分家にあたる農民で米穀商もした。重税・新税の撤廃を実現するため、三閉伊通り諸村の農民が蜂起(ほうき)して仙台藩領に越境し、仙台藩からの圧力で南部藩側に要求を飲ませるという戦法をとった。命助は仙台藩領に越訴(おっそ)してから農民代表となって交渉し頭角を現した。農民の勝利に終わったのち、藩側からにらまれ弾圧された。そのため1854年(安政1)村を脱出し、各地を回って帰国したが、公金横領の名目で投獄された。7年間獄中にあって牢死(ろうし)した。妻子にあてた「獄中記」(『日本思想大系』所収)を書くほどの教養があった。

[横山十四男]

『森嘉兵衛著『三浦命助伝』(1962・平凡社)』

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百科事典マイペディア 「三浦命助」の意味・わかりやすい解説

三浦命助【みうらめいすけ】

幕末の百姓一揆(いっき)の指導者。陸奥(むつ)国盛岡藩領上閉伊(かみへい)郡栗林村の肝煎(きもいり)筋の分家に生まれ,20歳のころから三閉伊(さんへい)通とよばれる盛岡藩領太平洋岸沿いの農漁村を回って荷駄商いを行っていた。1853年増税に苦しむ三閉伊農民1万余人が越境して仙台藩へ越訴(おっそ),永住地を同藩領に求めた三閉伊一揆で,命助は指導者の一人として仙台・盛岡両藩との交渉に活躍した。一揆終息後,一時村役人などを務めたが,身の危険を察して脱藩し京都へ逃亡。1857年盛岡藩領に戻ろうとして捕縛され,1864年牢死した。著書《獄中記》は彼の思想を知る貴重な文献である。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三浦命助」の解説

三浦命助
みうらめいすけ

1820~64.2.10

1853年(嘉永6)に発生した盛岡藩三閉伊(さんへい)一揆で畠山太助とともに活動した最高頭取の1人。陸奥国上閉伊郡栗林村の百姓で本家は肝煎。54年(安政元)老名(おとな)となるが,同年に発生した村方騒動にまきこまれ出奔。仙台藩領の村で修験として活動したあと京都へ赴き,二条家家臣として名のることを許可される。57年帰村する途中で藩により逮捕され,64年(元治元)牢死。入牢中留守家族のために書き綴った「獄中記」は,幕末期の民衆の思想状況を知る貴重な文献。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三浦命助」の解説

三浦命助 みうら-めいすけ

1820-1864 幕末の一揆(いっき)指導者。
文政3年生まれ。陸奥(むつ)閉伊(へい)郡(岩手県)栗林村の人。嘉永(かえい)6年(1853)盛岡藩領の三閉伊一揆を指導。要求はほぼみとめられたが,藩ににくまれて他領へ出奔。安政4年(1857)捕らえられ,元治(げんじ)元年3月10日獄死。45歳。妻子に生計の道などを説いた「獄中記」をのこす。
【格言など】人間と田畑をくらぶれば,人間は三千年に一度さくうどん花(げ)なり(「獄中記」)

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世界大百科事典(旧版)内の三浦命助の言及

【三閉伊一揆】より

…これに抵抗して農漁民1万数千人は47年冬,弥五兵衛を惣頭人として藩重臣の南部弥六郎の城下遠野へ強訴し,要求を認めさせたが藩によって裏切られ,牢死,流刑者もでた。6年後の夏,1万余人の農漁民が太助,命助(三浦命助)らを指導者として再び一揆を起こし,仙台藩領へ逃散して非政を訴えた。以後約半年間,盛岡・仙台両藩と百姓惣代との間に交渉がおこなわれた結果,藩主交替の主張は認められなかったが,新税,流通統制や役人数に関するほとんどの要求が通り,指導者を処罰しないことも約束された。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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