上大久保村(読み)かみおおくぼむら

日本歴史地名大系 「上大久保村」の解説

上大久保村
かみおおくぼむら

[現在地名]瑞穂町字上大久保

水原みわら村の西、土師はぜ川の下流側に位置する。村内を福知山―京街道が横断し、人家の大部分は街道と土師川に沿うが、一部は北のきた山の谷と南の鷲尾わしおの谷の奥深い谷間に点在する。土師川近辺とこの二谷に耕地があり、そのほかの部分は山地である。南はおく村、西は下大久保村、北は猪鼻いのはな村。鶴牧藩領。

貝原益軒は「西北紀行」に「大久保村」として次のように記す。

<資料は省略されています>

万延元年(一八六〇)一一月、当村の半左衛門らが、村内の酒屋金右衛門の米の買占めに抗議しようとしたところ、たちまちにして二千人にも達する賛同者を得たという。


上大久保村
かみおおくぼむら

[現在地名]大沢野町上大久保

大沢野中位段丘の北部に位置し、北は下大久保村、北東は東大久保村、西は中大久保村。一帯を塩野しおのといった。「越中旧事記」に「塩野南北二里、東西一里ありと云。此野の中に清水あり(中略)宝暦年中に野の中に民家五軒建ちて大窪村と云」とあり、清水が湧出する所で、谷間の窪みにあたる地形からきた地名である。富山藩に残った未開墾地で、寛保(一七四一―四四)頃から用水開削が始まり、文化三年(一八〇六)岡田嘉兵衛が大久保用水を拡大し同一〇年完成した。


上大久保村
かみおおくぼむら

[現在地名]鹿沼市上大久保

足尾あしお山地の山間にあり、大芦おおあし川が西から東に流れる。川下は下大久保村、川上下草久しもくさぎゆう村。古峰ふるみね神社へ通じる道が川沿いに走る。江戸時代初頭は下大久保村と一村で、寛文(一六六一―七三)の頃までに上下二村に分れた。元禄郷帳に村名がみえ、高三五五石余。領主変遷は下大久保村と同じ。日光領として毎年七月に大和竹一五本・葉唐竹二本を納めた(日光山森羅録)壬生みぶ板橋いたばし文挟ふばさみ宿(現今市市)定助郷となり、享保九年(一七二四)の板橋・文挟宿助郷帳(小堀三郎文書)によれば勤高三五五石。嘉永六年(一八五三)から尊徳仕法が実施され、同年の家数四一・人数一九四、馬二七で、総反別四五町二反余のうち荒畑二三町三反余と五割以上が荒畑であった(日光領高反別其外調書)


上大久保村
かみおおくぼむら

[現在地名]浦和市上大久保

千駄せんだ村の北西にあり、荒川の自然堤防地帯に立地する。西をかも川が流れる。東は上峰うえみね(現与野市)、西は下大久保村。中世には大窪おおくぼ郷に属し、天正一九年(一五九一)一一月同郷内の五石が浄楽じようらく寺に寄進されている(「徳川家康寄進状」浄楽寺文書)。田園簿では下大久保村を含めた大窪村一村で高付されており、高五三〇石余、反別田四八町一反余・畑四四町二反余、幕府領一五五石のほか旗本三家の相給で、うち旗本人見領四五石はのち下大久保村分となる。分村の時期は不明だが、元禄郷帳に上大久保村がみえ、高三一三石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領で、同領のまま幕末に至る(「風土記稿」・改革組合取調書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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