戦国時代の剣術家。生没年不詳。新陰流の祖であると同時に上泉流兵法学の祖。初め伊勢守,後に武蔵守信綱。永正年間(1504-21)上州桂萱郷(かいがやごう)上泉(現,群馬県前橋市上泉)に生まれる。彼の生涯は戦国動乱の時代で,関東甲信越は群雄が各地に割拠し,互いに攻防を繰り返していた。上泉家は,最初上杉の配下にあり大胡城主であったが,北条,上杉,武田とその支配が変転した。武将としての秀綱は,武田から惜しまれながら新陰流の修行弘流のため武田家を辞し,1563年(永禄6)より兵法修行者として出郷。秀綱は愛洲移香(あいすいこう)の陰流を学び,さらに鹿島,香取の神道流も修め新陰流兵法を確立した。諸国遍歴した秀綱は,京,大和に逗留(とうりゆう)し,将軍足利義輝に兵法学を講じたり,新陰流兵法を上覧に供したりして,70年(元亀1)に従四位下に叙せられた。また宝蔵院胤栄(いんえい),柳生宗厳(やぎゆうむねよし)(石舟斎)らも上泉の門下となり,宗厳には1565年(永禄8)新陰流の皆伝印可を与えた。そのほか疋田豊五郎(ひきたぶんごろう),丸目蔵人佐(まるめくらんどのすけ)など優秀な弟子が多く,上泉の道統は近世おおいに隆盛した。
執筆者:中林 信二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…1566年(永禄9)長野氏が武田信玄に滅ぼされると,大胡氏は,一部は上杉氏に属し,一部は武蔵牛込に移り牛込氏を称した。また上泉に住した大胡武蔵守信綱(後に,上泉秀綱となる)は浪人となり,新陰流の剣法を起こした。【峰岸 純夫】。…
※「上泉秀綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加