上泉秀綱(読み)かみいずみひでつな

精選版 日本国語大辞典 「上泉秀綱」の意味・読み・例文・類語

かみいずみ‐ひでつな【上泉秀綱】

室町末期の剣客。信綱ともいう。新陰流の祖。伊勢守のち武蔵守。上野国上泉の人。愛洲陰流(あいすかげりゅう)を修め、派を開いて諸国歴遊門下疋田文五郎、丸目蔵人柳生宗厳などがあり、剣聖と称された。こういずみひでつな。生没年未詳。

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デジタル大辞泉 「上泉秀綱」の意味・読み・例文・類語

かみいずみ‐ひでつな〔かみいづみ‐〕【上泉秀綱】

戦国時代の剣術家で、新陰流の祖。伊勢守。上野こうずけ上泉の人。のち、信綱と改名門人柳生宗厳やぎゅうむねよしらがいる。生没年未詳。こういずみいせのかみ。

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改訂新版 世界大百科事典 「上泉秀綱」の意味・わかりやすい解説

上泉秀綱 (かみいずみひでつな)

戦国時代の剣術家。生没年不詳。新陰流の祖であると同時に上泉流兵法学の祖。初め伊勢守,後に武蔵守信綱。永正年間(1504-21)上州桂萱郷(かいがごう)上泉(現,群馬県前橋市上泉)に生まれる。彼の生涯は戦国動乱の時代で,関東甲信越は群雄が各地に割拠し,互いに攻防を繰り返していた。上泉家は,最初上杉配下にあり大胡城主であったが,北条,上杉,武田とその支配が変転した。武将としての秀綱は,武田から惜しまれながら新陰流の修行弘流のため武田家を辞し,1563年(永禄6)より兵法修行者として出郷。秀綱は愛洲移香(あいすいこう)の陰流を学び,さらに鹿島,香取の神道流も修め新陰流兵法を確立した。諸国遍歴した秀綱は,京,大和に逗留とうりゆう)し,将軍足利義輝に兵法学を講じたり,新陰流兵法を上覧に供したりして,70年(元亀1)に従四位下に叙せられた。また宝蔵院胤栄(いんえい),柳生宗厳(やぎゆうむねよし)(石舟斎)らも上泉の門下となり,宗厳には1565年(永禄8)新陰流の皆伝印可を与えた。そのほか疋田豊五郎(ひきたぶんごろう),丸目蔵人佐(まるめくらんどのすけ)など優秀な弟子多く,上泉の道統近世おおいに隆盛した。
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百科事典マイペディア 「上泉秀綱」の意味・わかりやすい解説

上泉秀綱【かみいずみひでつな】

室町末期の武人,剣客。生没年不詳。伊勢守と称し,のち武蔵守信綱と名乗る。上野(こうずけ)の人。初め上野箕輪(みのわ)城主長野氏に仕えたが,箕輪落城後,諸国を巡り京に上って名声を得た。剣法は愛洲陰(あいすかげ)流を学び,のち新陰流を創始。門人に柳生宗厳(むねよし),疋田(ひきた)文五郎,神後伊豆守らがいる。また小笠原流軍学を修め,これは継承されて上泉流軍法と呼ばれた。
→関連項目陰流新陰流塚原卜伝柳生流

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世界大百科事典(旧版)内の上泉秀綱の言及

【大胡氏】より

…1566年(永禄9)長野氏が武田信玄に滅ぼされると,大胡氏は,一部は上杉氏に属し,一部は武蔵牛込に移り牛込氏を称した。また上泉に住した大胡武蔵守信綱(後に,上泉秀綱となる)は浪人となり,新陰流の剣法を起こした。【峰岸 純夫】。…

【新陰流】より

上泉秀綱(生没年不詳)の創始した剣術流派。戦国時代,愛洲移香(1452‐1538)によって創始された陰流に,鹿島・香取の神道流剣術をも加え,総合して上泉が組み立てた。…

※「上泉秀綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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