下小野村(読み)しもおのむら

日本歴史地名大系 「下小野村」の解説

下小野村
しもおのむら

[現在地名]佐原市下小野

下総台地北部に位置し、北は多田ただ村、西は返田かやだ村。集落は台地上に形成され、水田は小野川の谷に広がる。元禄郷帳に「古は小野村」と注記される。中世は香取社領小野村。織幡おりはた葛原くずはら(綱原村)とともに大槻おおつき郷内(→葛原牧・大槻郷。応保二年(一一六二)閏二月日の関白藤原基実家政所下文写(香取文書、以下中世の記述では断りのない限り同文書)に「織幡・小野・綱原」とみえ、大禰宜の大中臣真房(実房)が偽って留守所の符を与えられ、故左大臣藤原頼長との強縁によって二ヵ年の間、当村を含む三ヵ村を収公してしまった。保元の乱により頼長が敗死したのち収公は停廃され、国司も前の庁宣を撤廃した。このため宮司中臣助重は香取社の本所である藤原基実に対し、真房の妨げを停止するよう訴え、助重の三ヵ村知行が認められている(以上前掲政所下文写)。建永元年(一二〇六)大中臣実員を大禰宜職に補任し、金丸かねまる犬丸いぬまるの人々の妨げを止め、嫡流相伝の証文などに任せ実員に小野・織幡・金丸・犬丸の名田畠を支配させるよう命じている(同年七月日関白左大臣近衛家実家政所下文案)。承久二年(一二二〇)大禰宜大中臣実員は私領として三七代の間濫妨されることなく相伝してきた小野・織幡両村や金丸・犬丸名田を安堵されている(同年一〇月二九日関東下知状案)。嘉禄二年(一二二六)中臣助道は香取社の造営が一二年を過ぎても完成しないことを理由に、神主実義の解任と自らの神主職補任および大槻郷内小野・織幡・綱原つなはら三ヵ村の下賜を訴えて認められている(同年五月日関白前太政大臣近衛家実家政所下文写)。弘長元年(一二六一)検地が行われ、小野村には三二町六反余の香取社領田があった(同年一一月二五日葛原牧小野織幡地帳)。文永四年(一二六七)大中臣実久は小野・織幡両村を子息大禰宜実政に譲り、同九年実政は幕府より安堵を受けている(同年一二月一八日関東下知状)


下小野村
しもおのむら

[現在地名]南伊豆町下小野

青野あおの村の南、青野川の中流域に位置する。治承五年(養和元年、一一八一)一二月二四日の平某下文写(伊那下神社文書)によると平某が三島宮禰宜職則古に、神事料として安堵した神田八段半のうちに一反「加納小野郷分」とみえる。三島神社の永和年間(一三七五―七九)の棟札(南豆神祇誌)には「仁科庄小野郷三島大明神」とある。北条氏所領役帳には伊豆衆の山中彦次郎の役高として一四〇貫文「小野」がみえる。


下小野村
しもおのむら

[現在地名]柿崎町下小野

やなさき村の南東に位置し、東は上小野村、南は百木ももき村。永正一〇年(一五一三)の一〇月二八日付長尾為景書状(上杉家文書)に「小野」とみえ、為景は守護上杉定実方の宇佐美房忠を攻めるため、当地に陣をとった。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所此外拾七方分下小野村 上」とみえ、本納二四五石二斗三升二合・縄高三〇八石九斗六升四合、家一四軒・四〇人とある。正保国絵図には高三八八石余とある。天和三年郷帳では高三九七石九斗余、うち山高三石四斗余。


下小野村
しもおのむら

[現在地名]波賀町小野

引原ひきはら川の右岸に位置し、対岸はたに村、西は小野村。初め谷村に含まれており、寛文(一六六一―七三)前後に分村したと考えられる。元禄郷帳に村名がみえ、高一五石余、「古ハ谷村」と注記される。分村頃は山崎藩領で、延宝七年(一六七九)幕府領(「本多家譜」東京大学史料編纂所蔵など)、明和六年(一七六九)尼崎藩領、文政一一年(一八二八)幕府領となり幕末に至る(岡本家文書・旧高旧領取調帳など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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