下山口村(読み)しもやまぐちむら

日本歴史地名大系 「下山口村」の解説

下山口村
しもやまぐちむら

[現在地名]西宮市山口町下山口一―五丁目・山口町下山口・山口町金仙寺やまぐちちようきんせんじ山口町名来やまぐちちようならい二丁目・山口町阪神流通やまぐちちようはんしんりゆうつうセンター一―三丁目・北六甲台きたろつこうだい一―五丁目

名塩なじお村の西、有馬ありま川中流域にある有馬郡の村。丹波方面から有馬温泉(現神戸市北区)へ向かう街道沿いに集落を形成。村名は中世の山口庄に由来。慶長国絵図には「中野村・上野山口村・山口村・金谷寺・岡本村」として一千一七三石余が高付され、このうち山口村・金谷(金仙)寺・岡本村が当村にあたるとみられる。金仙寺村は正保郷帳では上山口村の高と一括されているが、延宝七年(一六七九)の下山口村検地帳(西宮市役所山口支所蔵)に高寄せされている。また岡本村についてはこれ以降の史料にみえないものの、慶長国絵図では山口村北隣に図示されているので下山口村に含まれると推察される。正保郷帳の下山口村の高六八〇石。このうち約二八〇石は有馬豊氏による増高で、ほかに茶・柿年貢が二石余(延宝九年「有馬郡村々明細書」関西学院大学蔵)


下山口村
しもやまぐちむら

[現在地名]葉山町下山口

西を相模湾に面し、東は上山口かみやまぐち村、南は長者ちようじやヶ崎・みね山・宝金ほうきん山と続く山稜を隔てて秋谷あきや(現横須賀市)、北は下山しもやま川と日影ひかげ山を隔てて一色いつしき村。下山川が西に流れ、海辺を三崎みさき道が通る漁業と農業の村。永享六年(一四三四)の沙弥聖喜(蘆名盛政)所領所職譲状写(県史三)にみえる「山口郷」が、近世初頭に上下に分れたと推定され、正保国絵図に下山口村とある。

漁業は地先で行う小規模なもので、安政二年(一八五五)の年貢として船方冥加八二一文七歩、元肴仲買冥加五〇〇文などがみえる(「船役運上等上納請書」県史九)


下山口村
しもやまぐちむら

[現在地名]いわき市平下山口たいらしもやまぐち

山口川流域にあり、南北に細長い村域をもつ。北東は下高久しもたかく村、北と西は上高久村、東は上山口村。磐前いわさき郡に属した。近世は磐城平藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録に山口村とみえ、高五八八石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)も山口村で高六〇八石余。正保郷帳では上山口村の高に含まれる。


下山口村
しもやまぐちむら

[現在地名]村山市河島かわしま

北流する最上川東岸、河島山の東部にあり、南は貝塩かいしお村、北は大淀おおよど村。最上氏領から元和八年(一六二二)山形藩領、寛永二〇年(一六四三)幕府領、寛政二年(一七九〇)以降常陸土浦藩領。寛永一三年の保科氏領知目録の高五〇九石余。正保郷帳では田方四三一石余・畑方七七石余。享保六年(一七二一)東根領覚書(横尾文書)では本田畑七三七石余・新田畑九六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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