日本大百科全書(ニッポニカ) 「下館藩」の意味・わかりやすい解説
下館藩
しもだてはん
常陸(ひたち)国真壁(まかべ)郡下館(茨城県筑西(ちくせい)市)に本拠を置いた譜代(ふだい)藩。この地は、戦国期には結城(ゆうき)氏の宿将水谷(みずのや)氏の所領であったが、1639年(寛永16)水谷氏は備中(びっちゅう)成羽(なりわ)へ移り、かわって水戸藩主徳川頼房(よりふさ)の長男松平頼重(よりしげ)が5万石で新封となったが、42年讃岐(さぬき)高松に移る。1663年(寛文3)三河西尾から増山正弥(まさみつ)が2万3000石で入り、1702年(元禄15)伊勢(いせ)長島に移る。翌03年、黒田直邦(なおくに)が1万5000石で入封、1732年(享保17)上野(こうずけ)沼田に移る。同年、伊勢神戸(かんべ)から石川総茂(ふさしげ)が2万石で入り、総陽(ふさはる)、総候(ふさとき)、総弾(ふさただ)、総般(ふさつら)、総親(ふさちか)、総承(ふさつぐ)、総貨(ふさとみ)、総管(ふさかね)と続き廃藩置県に至る。石川氏は雁間詰(かりのまづめ)、従(じゅ)四位下、播磨守(はりまのかみ)または若狭守(わかさのかみ)、江戸上屋敷は桜田門、中屋敷は麻布市兵衛(あざぶいちべえ)町、下屋敷は三田新堀(みたしんぼり)、四谷。所領は真壁郡30か村、河内(かわち)国石川郡18か村、同古市郡4か村計2万石。大坂蔵屋敷は近江(おうみ)町、蔵元(くらもと)泉屋源右衛門(げんえもん)、文政(ぶんせい)期(1818~30)、明治期に藩札を発行。藩校蒙養館(もうようかん)。寛政(かんせい)期(1789~1801)に心学講舎有隣舎(ゆうりんしゃ)があり、1838年(天保9)には二宮尊徳(にのみやそんとく)を起用して藩財政改革に着手、効果をみた。明治に至り下館県を経て茨城県に編入。
[秋山高志]