日本大百科全書(ニッポニカ) 「中井久夫」の意味・わかりやすい解説
中井久夫
なかいひさお
(1934―2022)
精神医学者。奈良県生まれ。1952年(昭和27)京都大学法学部入学、1955年医学部医学科に移り、1959年卒業。病院勤務などを経て、1975年より名古屋市立大学医学部助教授、1980年神戸大学医学部教授。1997年(平成9)に退官した後は甲南大学文学部教授(2004年退職)、神戸大学・甲南大学名誉教授。
大学卒業後、最初はウイルス学を研究するが、30代に精神医学に移り、当時まだ治療法の確立されていなかった統合失調症(精神分裂病)の研究にとりくむ。精神と身体の双方を、詳細に観察して読みとった患者の症状を時系列でグラフ化することから、寛解(回復)過程に関する研究を練り上げ、いくつかのフェーズの変移として病を位置づけることに成功した。また、その研究過程で生まれた、枠づけされた画用紙に風景の要素を配置させる「風景構成法」は、患者心理に悪影響をもたらすことの少ない診断法、芸術療法として高い評価を得ている。その後も、統合失調症論、治療論を中心に多数の論文を発表し、日本の精神医学の第一線にたつ。同時に、医学論文に収まらない文化論的視座を備えた『分裂病と人類』(1982)で、統合失調症の特徴がかすかな変化への鋭敏さにあると考えて、この能力が人類の生存に役だってきたのではないかという壮大な仮説を提示。1983年の『文化精神医学と治療文化論』(のちに『治療文化論』に改題)では、特定の地域文化圏のみでみられる文化依存症候群、地域とかかわりのない普遍症候群、より個性的で類型化しがたい個人症候群という概念に依拠して、伝統と精神の病のかかわりを探究した。このような中井の理論は、強靭(きょうじん)な構想力に支えられた斬新(ざんしん)なアイデアをちりばめつつ、体系化を志向せず、けっして臨床から遊離しない。とりわけその統合失調症論において、病者の微細な感覚や心理への洞察の深さには比類がない。
一方、該博な教養に裏打ちされた散文の名手として、『記憶の肖像』(1992)、毎日出版文化賞を受賞した『家族の深淵』(1995)、『アリアドネからの糸』(1997)といったエッセイを上梓(じょうし)している。また1984年からギリシア詩にひかれ、『現代ギリシャ詩選』(1985)、『リッツォス詩集 括弧(かっこ)』(1991)と、これまで日本では知られることの少なかった現代ギリシア詩人の作品を翻訳、紹介していく。『カヴァフィス全詩集』(1988)は、読売文学賞の研究・翻訳賞を受賞した。さらに青年期からポール・バレリーの著作に親炙(しんしゃ)しており、それは、1995年の『若きパルク 魅惑』の流麗な訳文となって結実した。
阪神・淡路大震災時、神戸大学にいた中井は、ただちに各大学の精神科医らのネットワークを組織して被災者のメンタル・ヘルスのために尽力し、被災者の精神的ケアを行う「こころのケアセンター」所長も務めた。その活動を通じ中井は、PTSD(心的外傷後ストレス障害)とそのケアの必要性という考えを日本に広めるためにも、一定の役割を果たした。その理論的知見と病者への繊細な配慮は、神戸大学退官講義『最終講義』(1998)や、教科書として書かれた『看護のための精神医学』(2001。山口直彦(1939―2019)との共著)からもうかがうことができる。2013年(平成25)文化功労者。
[倉数 茂]
『『分裂病と人類』(1982・東京大学出版会)』▽『『中井久夫著作集――精神医学の経験』1~5、別巻1、2(1984~1995・岩崎学術出版社)』▽『『記憶の肖像』(1992・みすず書房)』▽『『家族の深淵』(1995・みすず書房)』▽『『アリアドネからの糸』(1997・みすず書房)』▽『『最終講義――分裂病私見』(1998・みすず書房)』▽『中井久夫・山口直彦著『看護のための精神医学』(2001・医学書院)』▽『『治療文化論――精神医学的再構築の試み』(岩波現代文庫)』▽『中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』(1985・みすず書房)』▽『カヴァフィス著、中井久夫訳『カヴァフィス全詩集』(1988/新装版・1997・みすず書房)』▽『ヤニス・リッツォス著、中井久夫訳『リッツォス詩集 括弧』(1991・みすず書房)』▽『ポール・ヴァレリー著、中井久夫訳『若きパルク 魅惑』(1995/改訂普及版・2003・みすず書房)』