中宿村(読み)なかじゆくむら

日本歴史地名大系 「中宿村」の解説

中宿村
なかじゆくむら

[現在地名]須賀川市中宿・仲の町なかのまち崩免くずれめん守谷館もりやたて岩瀬森いわせもり上人坦しようにんだん愛宕山あたごやま芦田塚あしだつか境免さかいめん前川まえかわ古館ふるたて六郎兵衛ろくろうべえ中曾根なかそね柳山やなぎやま下宿前しもじゆくまえ緑町みどりちよう古屋敷ふるやしき古河ふるかわ中山なかやまなど

須賀川きた町の北、阿武隈川西岸に合流する釈迦堂しやかどう川下流域両岸の氾濫原と河岸段丘上に立地。地名は古代に官道が通り、その宿駅であったことに由来するとされ、崩免にウマヤの地名が残り、うまや遺跡がある。「和名抄」に載る磐瀬いわせ駅家うまや郷は当地一帯に比定されている。なお釈迦堂川を越える岩瀬渡と同川北岸の岩瀬森を歌枕「磐瀬森」「磐瀬渡」に比定する考えがあるが、歌学書は他国とする。岩瀬森にある鎌足かまたり神社は建久元年(一一九〇)創建と伝える。また隣接地の上人坦には奈良時代初期から平安時代にかけての上人壇しようにんだん廃寺がある。応永六年(一三九九)関東公方の奥羽支配機関として置かれた篠川ささがわ稲村いなむら両御所を結ぶ道も当地を通っていた。室町時代中期から戦国期には二階堂氏の居城須賀川城の北の入口を占め、商人も居住して繁栄していたとみられる。なお野川本「藤葉栄衰記」は、須賀川城下は本宿もとじゆくと「いなり山より牛袋の間」の中宿・下宿一帯に広がっていたとする。

天正一七年(一五八九)伊達氏に攻められ須賀川城は落城、同年一一月二二日の伊達政宗充行状写(伊達家文書)に「中しゆく三百五十貫文」「守や百七十五〆文」とみえ、政宗は二階堂旧臣守屋筑後守俊重に俊重の本領地であったとみられる当地を与えている。


中宿村
なかじゆくむら

[現在地名]牟礼村大字柳里やなぎさと

現牟礼村の中央部。東は黒川くろかわ村・新井あらい村、南は野村上のむらかみ村、西は野村上村枝郷北川新田きたがわしんでん村、北は新井村に接する。村の西の飯縄いいづな(一九一七・四メートル)霊仙寺りようせんじ(一八七五メートル)両山麓と、南の三登みと(九二三メートル)山塊の山麓とによって囲まれた高原性平地(牟礼盆地)の中央に位置し、平地は東方牟礼宿方面に開けており、両山中に源を発する八蛇やじや川・滝沢たきざわ川が西から東へ流れ、この平地を牟礼宿から坂中さかなか峠に通ずる沿線上に集落が存在する。


中宿村
なかじゆくむら

[現在地名]安中市中宿一丁目・中宿

碓氷うすい川と九十九つくも川の合流点近くの南岸に位置し、北西は碓氷川を隔てて下野尻しものじり村、東は同じく板鼻いたはな村。福徳二年(延徳三年、一四九一)七月一〇日の渓嵐拾葉集奥書(叡山文庫真如蔵)に「於上州中宿蓮花寺書写了」とみえる。中山道筋にあり、安中宿と板鼻宿の間に位置するところから地名が生じたという。「寛文朱印留」に村名がみえ、安中藩領。寛文郷帳では田方四五七石余・畑方一五三石余。


中宿村
なかじゆくむら

[現在地名]西方村本城ほんじよう

しろ山東麓にあり、南は古宿ふるじゆく村。中世以来の栃木と日光を結ぶ道に沿う。近世初頭、西方藩藤田氏の城下町整備にあたり成立し、西方郷一三ヵ村のなかでは比較的新しい村といわれる(西方記録)。慶安郷帳に村名がみえ、田三〇〇石余・畑一九五石余、武蔵岩槻藩領。のち下総古河藩領を経て、元禄一一年(一六九八)には旗本堀・竹本・板倉領の三給となり幕末に至る。旧高旧領取調帳によれば堀・竹本が二〇〇石、板倉が一七五石余を知行。天保年間(一八三〇―四四)の家数四五(改革組合村)。西方郷用水の上郷五ヵ村に含まれた。平地に位置したため、真名子まなご村、深程ふかほど(現粟野町)の山に入会ったが、両村と争論がたびたび発生した。


中宿村
なかしゆくむら

[現在地名]糸魚川市中宿

はや川河口右岸、北陸道に沿い、対岸は梶屋敷かじやしき村、東は中浜なかはま村に接する。もと浦本うらもと村のうちで、元禄郷帳に「古浦本村」と注記される。延宝五年(一六七七)の村々高付之帳によれば地高二三石五斗余・浜高二石一斗余・山高一七石七斗余、庄屋一・百姓一二・名子百姓四で、ほかに新田三ヵ所三六石余が早川谷大肝煎の支配を受けている(糸魚川市史)。天和三年郷帳に高一一九石二斗余とある。背後は高い崖で前は荒海、その間の狭い平場に集落があり、大波の害を受けやすかった。寛政四年(一七九二)九月の高波で居屋敷に居住できなくなったため、高田御預地役所に願出て波除け石囲長さ一〇〇間・幅二間・高さ二間を人足一千人で普請してもらっている。


中宿村
なかじゆくむら

[現在地名]新井市中宿

高床たかとこ(五二七・七メートル)の北東麓、せき川の西岸に位置し、飯山いいやま道に沿い、北は姫川原ひめがわら村、南は堀之内ほりのうち村に接する。年月日未詳の高梨氏所領注文(高梨文書)に「中宿」とあり、本地一七ヵ所の代りとして高梨氏に渡されている。寛永一一年(一六三四)の戌ノ歳物成米納方皆済目録(尾島照夫氏蔵)によれば、高七四石九斗余、この物成三〇石七斗余、口米一石八斗余で、この賦課高を米納三一石六斗余・大豆一石五斗八升八合・荏一斗五升九合・胡麻三升九合七勺で現物納している。


中宿村
なかじゆくむら

[現在地名]掛川市中宿

倉真くらみ川の下流左岸にあり、北は飛鳥あすか村、東は北西郷きたさいごう村、西は大池おおいけ村、南は掛川城下に接する。初め飛鳥村に含まれていたが、寛永一六年(一六三九)に分村したという(掛川誌稿)。しかし正保郷帳では飛鳥村に含まれている。元禄郷帳に村名がみえ、高八九石余。国立史料館本元禄郷帳では掛川藩領(幕末に至る)北昌ほくしよう(北照寺、現廃寺)領。


中宿村
なかじゆくむら

[現在地名]愛知川町中宿

愛知川村の北東にあり、かつて愛知川が南北二流に分れていた頃、その両川の中間に位置していたため中宿とよばれたと伝える。中山道が村内を縦断し、中世から愛知川中橋なかはし市として栄えた(今堀日吉神社文書)。慶長五年(一六〇〇)彦根藩領となり、慶長高辻帳に村名がみえ高一七八石余、うち小物成二斗。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば、男一二〇・女一二九、寺社方男四・女一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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