中村宗哲
なかむらそうてつ
江戸時代から京都に続いた塗師(ぬし)。茶の湯家元・千家(せんけ)の職家(しょくか)の一の塗師として世襲した家柄で、現在12代に及ぶ。初代宗哲(1617―95)は通称を八郎兵衛、名を玄弼(げんひつ)といい、勇山、漆翁、方寸葊(あん)と号した。点茶を好み藤村庸軒(ふじむらようけん)と深く交わり、千家の塗師として代々業を伝えた。3代宗哲(1699―1776)は漆桶(しつよう)、汲斎(きゅうさい)、紹朴と号し、中村家各代のうちもっとも著名。棗(なつめ)の作品が世に賞玩(しょうがん)され、70歳の賀に700点の棗をつくり、彭祖(ほうそ)宗哲と称された。12代宗哲(1932―2005)は11代の長女。1986年(昭和61)に襲名、女性初の職家となった。
[郷家忠臣]
『12代中村宗哲著『漆の美 中村宗哲家の歴代――意を匠み、技を重ねる』(2003・淡交社)』
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中村宗哲【なかむらそうてつ】
江戸時代に始まる代々の塗師。10世まである。初世〔1617-1695〕は,名を玄弼といい,京都の人。点茶を好み,藤村庸軒との交わりを通じて千家の塗師となった。3世〔1699-1776〕は漆桶(しっとう)と号し,後桜町天皇即位の調度の蒔絵(まきえ)で著名。代々のうち最も名工とされる。
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中村宗哲(初代) なかむら-そうてつ
1617-1695 江戸時代前期の塗師(ぬし)。
元和(げんな)3年生まれ。京都の人。家は千家十職(じっしょく)のひとつとなり,代々宗哲と称して現代まで12代つづく。蒔絵(まきえ)より塗りを主とした。灰屋紹益(じょうえき),藤村庸軒(ようけん)らとまじわり,茶道,俳諧(はいかい)をよくした。元禄(げんろく)8年5月死去。79歳。名は玄弼(げんひつ)。通称は八兵衛,八郎兵衛。号は公遊,漆翁,勇山,方寸斎。
中村宗哲(3代) なかむら-そうてつ
1699-1776 江戸時代中期の塗師(ぬし)。
元禄(げんろく)12年生まれ。歴代のうち漆桶(しつよう)宗哲の名でもっとも著名。宝暦13年後桜町天皇の即位の調度に蒔絵(まきえ)をほどこした。70歳のとき,700点の棗(なつめ)をつくり「彭祖(ほうそ)の棗」と称された。安永5年1月22日死去。78歳。通称は八兵衛。号は方寸庵,漆翁,漆桶,汲斎。俳号は紹朴。
中村宗哲(2代) なかむら-そうてつ
1662/69-1706 江戸時代前期の塗師(ぬし)。
寛文2/9年生まれ。初代宗哲の子で元哲ともよばれ,蒔絵(まきえ)と漆塗りで知られた。宝永3年死去。38/45歳。通称は八兵衛。号は勇斎。
中村宗哲(7代) なかむら-そうてつ
1799-1846 江戸時代後期の塗師(ぬし)。
寛政11年生まれ。6代宗哲の弟。尾張(おわり)徳川家から得玄の印をあたえられた。弘化(こうか)3年死去。48歳。通称は八兵衛。号は貘斎。
中村宗哲(5代) なかむら-そうてつ
1767-1811 江戸時代後期の塗師(ぬし)。
明和4年生まれ。4代宗哲の子で,蒔絵(まきえ)で知られた。文化8年死去。45歳。通称は八郎兵衛,のち八兵衛。号は豹斎,漆畝。
中村宗哲(6代) なかむら-そうてつ
1794-1839 江戸時代後期の塗師(ぬし)。
寛政6年生まれ。5代宗哲の子で,家業を弟にゆずって分家した。天保(てんぽう)10年死去。46歳。通称は八兵衛。号は揲斎。
中村宗哲(4代) なかむら-そうてつ
1728-1791 江戸時代中期の塗師(ぬし)。
享保(きょうほう)13年生まれ。3代宗哲の養子で中村家をついだ。寛政3年死去。64歳。通称は八郎兵衛。号は深斎。
中村宗哲(10代) なかむら-そうてつ
1862-1926 明治-大正時代の塗師(ぬし)。
文久2年生まれ。8代宗哲の娘。9代宗哲の妻。昭和元年死去。65歳。名は真子。通称は尼宗哲。
中村宗哲(8代) なかむら-そうてつ
1829-1884 幕末-明治時代の塗師(ぬし)。
文政12年生まれ。明治17年死去。56歳。名は忠一。通称は八郎兵衛。号は到斎,聴雨。
中村宗哲(9代) なかむら-そうてつ
1856-1911 明治時代の塗師(ぬし)。
安政3年生まれ。8代宗哲の娘婿。明治44年死去。56歳。名は義生。通称は喜三郎。号は英斎。
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中村宗哲(3世)
なかむらそうてつ[さんせい]
[生]元禄13(1700)
[没]安永5(1776)
千家 (→千利休 ) の塗師。方寸庵,勇斎,漆翁,漆桶などと号し,京都で活躍。 70歳の賀に 700の棗 (なつめ) を作り,彭祖 (ほうそ) 宗哲と称されて歴代中最も名高い。
中村宗哲(1世)
なかむらそうてつ[いっせい]
[生]元和3(1617)
[没]元禄8(1695)
千家 (→千利休 ) の塗師。名は玄弼,号は漆翁,勇山など。京都で活躍。
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世界大百科事典(旧版)内の中村宗哲の言及
【棗】より
… 茶の湯として規範となる棗は利休型で,大・中・小のうち利休型中棗が棗の標準となっている。この寸法は千家の職方である中村宗哲家に伝来するもので,きびしく管理される。利休によってわび茶が進行すると,陶製の濃茶入に代替するものとして,中棗(鷲棗)を仕覆(しふく)(袋)に入れる仕覆棗や,帛紗(ふくさ)で包む包帛紗,また縮緬(ちりめん)の大津袋に入れるなど,中棗が濃茶入に替えて用いられ,棗の茶器としての重みが増した。…
※「中村宗哲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」