丸屋町
まるやちよう
[現在地名]大津市中央一丁目
中堀町の南にある中町通の両側町で、西は元会所町、南は上京町(寛保二年町絵図)。天和二年(一六八二)の本堂奉加帳(九品寺文書)に町名がみえ、元禄八年町絵図では家数三六。近江屋八兵衛家は宝暦一三年(一七六三)より酒造業を営んでいた(大津市志)。明和九年(一七七二)扇屋関の堀浚えなど負担割当を定められた際には、関からやや離れているとして五軒役となっている(丸屋町自治会共有文書)。天保九年(一八三八)西の菱屋町境で行倒れ人があり、遺体処理や目付・町代など立会役人への謝礼、片付け人足の雇い賃など銭一貫三七二文であったが、発見場所がいずれかの町により近い場合でも両町で均等に負担することとした(同文書)。
丸屋町
まるやちよう
下京区綾小路通猪熊西入
東西に通る綾小路通(旧綾小路)を挟む両側町。
平安京の条坊では左京五条二坊一保一町南側と同二町北側にあたり、平安中期以降は綾小路猪熊小路の西の地。金勝院本「太平記」によれば、延元元年(一三三六)六月晦日に「太宰少弐頼尚ガ陣ハ、綾小路大宮ノ長者匡遠ガ宿所ニゾ有ケル」とあり、匡遠宿所が当町近辺にあったと推定される。「康富記」康正元年(一四五五)一一月二八日条には、
<資料は省略されています>
とあり、中原康富の知行地であったことがわかる。
丸屋町
まるやちよう
[現在地名]中央区銀座八丁目
佐兵衛町の南にある片側町。東は寄合町、南と西は外堀に面していた。寛文新板江戸絵図に「丸や丁」とみえる。安永三年小間附町鑑によれば京間三七間三尺五寸、公役銀を納めていた。名主は筑波町と同じ。
丸屋町
まるやちよう
中京区高倉通三条下ル
南北に通る高倉通(旧高倉小路)を挟む両側町。
平安京の条坊では、左京四条四坊一保一町東及び同八町西。
「材木屋在所」(祇園社記)には「同たかくら こけい」とあり、室町中期、この町付近に祇園社材木座商人が居住していた。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「丸屋町」とあり、以後変化はない。延宝六年(一六七八)刊「京雀跡追」には「かうの物や たかくら三条下ル丁」とあり、元禄・宝永期の町鑑類もこの記載を踏襲。
丸屋町
まるやちよう
下京区西中筋通正面下ル
南北に通る西中筋通(堀川通)に西面する片側町。
平安京の条坊では、左京七条二坊三保一一町の地。付近には、平安京の官設市場である東市があった(拾芥抄)。
近世には西本願寺寺内町となり、寺内九町組のうち住吉組に所属。また「客屋十二町」の一つでもあった。町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「にし中筋三丁目」とあるが、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「丸屋町」の名がみえる。
丸屋町
まるやちよう
南北に通る御幸町通を挟む両側町。北は姉小路通(旧姉小路)に面する。
平安京の条坊では、左京三条四坊三保一三町東側の地。平安中期以降は、姉小路東京極大路南東にあたる。
町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「丸屋丁」とあり、以降変化はない。
近世、当町には、筆師・具足屋(京羽二重)、諸国買物問屋(京羽二重織留)、旅人問屋(京独案内手引集)があった。
丸屋町
まるやちよう
下京区御幸町通綾小路下ル
南北に通る御幸町通を挟む両側町。
平安京の条坊では左京五条四坊四保一五町の地、平安中期以降は綾小路京極大路の西にあたる。
寛永一八年(一六四一)以前平安城町並図には「丸や町」とみえるが、寛永一四年洛中絵図や寛永以後万治以前京都全図には「四条瓦や町」とある。
丸屋町
まるやちよう
南北に通る葭屋町通の両側町。平安京の条坊では左京一条二坊二保五町の中央の地で、官衙町の一つ「官厨家」の跡地(拾芥抄)。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「丸屋丁」と現町名がみえ、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」では「丸屋町 北側 南側」と南北二町に分れ、明治二年(一八六九)合併した(坊目誌)。
丸屋町
まるやちよう
中京区夷川通寺町西入
東西に通る夷川通(旧冷泉小路)の両側町。
平安京の条坊では東京極大路冷泉小路の交点付近にあたり、町域はほぼ東京極大路の路上にあたる。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「丸屋町」とあり、寛永一八年以前平安城町並図は「東ゑひす川町」としているが、以降変化はない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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