丹波村(読み)たんばむら

日本歴史地名大系 「丹波村」の解説

丹波村
たんばむら

[現在地名]峰山町字丹波

竹野川左岸に位置し、吉沢よつさわ(現竹野郡弥栄町)から分岐した、峯山町への間人たいざ街道沿いにある。峯山藩領。

古代丹波郷(和名抄)の中心地とされる。村域内から弥生式土器片が出土し、古墳は一〇基(一基は前方後円墳)ある。また隣接の杉谷すぎたにの地には丹後最大の円墳(カジヤ古墳)をはじめ西谷山にしたにやま古墳群・杉谷山すぎたにやま古墳群があり、当地辺りが古くから開けた地であったことをうかがわせる。

中世末の丹後国御檀家帳には「たんはのかう 和田殿一城主也、宮津小倉殿の御内の人」とみえ、和田八郎・わた殿御内湯浅源三郎の名が記される。


丹波村
たんばむら

[現在地名]足助町みや

足助川の支流菅生すごう川に沿い、東は川面かわおもて村、南は足原あしばら村・須田すだ村、西は菅生村、北は上垣内かみがいと村に接する。伊那いな街道が村のほぼ中央を菅生川に沿って通り、集落は谷地形の山麓点在伊那街道は現県道小渡―明川―足助線。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦後、則定のりさだ村に陣屋を置いた旗本鈴木重次の知行地となり、幕末まで鈴木家知行地。天保九年(一八三八)の三河国賀茂郡九ケ村明細帳(深見保家文書)によると、村高三七石余、反別三町八反歩余、うち田一町四反余・畑二町三反余、年貢一五石余、家数一〇、人数四二、うち男二一・女二一、御藪一ヵ所、百姓持山四ヵ所、産神宮・山ノ神小社・大日堂を記す。


丹波村
たんばむら

[現在地名]山内村大松川おおまつかわ

大松川村の西、標高四〇〇メートルの高地にあった村。村名について「むかし丹波といふ浮浪人開きたる処とや」と菅江真澄は推定している(雪の出羽路)

宝永二年(一七〇五)の平鹿郡村々御黒印高帳(秋田県庁蔵)に当高二石八斗五合とあり、新田のみ、免は四ツとある。享保三年(一七一八)の御物成皆済目録(山内村郷土資料)には丹波開村とみえ、「六郡郡邑記」には「丹波開村開字除かる 家員八軒、山内村支郷別黒印、或は古内木ふるまき村とも唱也」と記される。


丹波村
たんばむら

[現在地名]小原村西丹波にしたんば

現小原村の東端にあり篠平ささだいら細田ほそだから飯田いいだ(現長野県)に抜ける飯田街道が通る。寛永郷帳では岡崎藩領、天明六年(一七八六)旗本久世三四郎領で明治維新に至る。明治九年(一八七六)の副業統計(小原村誌)では木挽が二戸ある。「愛知県西加茂郡各村沿革調」によれば、同一八年の戸口は一九戸・九一人で、特有物産に漆四〇〇本・楮五〇〇貫がある。


丹波村
たんばむら

[現在地名]美和町丹波

東は森山もりやま村に接する。永正一二年(一五一五)一〇月一一日の宗成寄進状(妙興寺文書)に「須賀垂散在内丹波垣内下地之事」とみえる。「寛文覚書」に戸数三二、人数一七一とある。「徇行記」によれば、概高七〇九石余のうち三四一石余は藩士七人の給知。田は二四町四反三畝余、畑は一〇町九反五畝余。「尾張国地名考」は「此むらの宅地を観るに家屋敷と田所と一枚一枚打雑りて村中恰も縞糸の筋のごとし」とし、条里の遺制名残を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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