二階堂貞藤(読み)にかいどうさだふじ

改訂新版 世界大百科事典 「二階堂貞藤」の意味・わかりやすい解説

二階堂貞藤 (にかいどうさだふじ)
生没年:1267-1334(文永4-建武1)

鎌倉末期の文官。幕府政所執事行藤の子。1320年(元応2)出家法名道蘊(どううん)。32年(元弘2)政所執事。朝幕間の交渉にあたり幕末の重要な局面に活躍。正中の変で後醍醐天皇より北条高時に誓詞が送られたとき,〈天子武臣告文を与えた例は中国にも日本にもない〉と高時を諫めた逸話は有名(《太平記》)。幕府滅亡後も才学を惜しまれ,許されて建武政府に登用されたが,34年陰謀のかどにより子,孫とともに殺された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「二階堂貞藤」の意味・わかりやすい解説

二階堂貞藤
にかいどうさだふじ
(?―1334)

鎌倉末期の幕府政所執事(まんどころしつじ)。行藤(ゆきふじ)の子。通称三郎。出羽守(でわのかみ)となり、1320年(元応2)出家。法名道蘊(どううん)。幕末期に朝廷との交渉にも携わり、有力者の1人で、32年(元弘2)政所の執事となる。正中(しょうちゅう)の変に後醍醐(ごだいご)天皇が事件と無関係との誓書を執権北条高時(たかとき)に送ったとき、天子が武臣に誓書を与えた例はないと閲読を止めた。当時幕府随一の賢才といわれ、幕府滅亡後、許されて建武(けんむ)政府の雑訴決断所の職員となったが、34年(建武1)謀反連座、京都六条河原で斬(き)られた。

[百瀬今朝雄]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「二階堂貞藤」の解説

二階堂貞藤 にかいどう-さだふじ

1267-1335* 鎌倉時代の武将
文永4年生まれ。二階堂行藤の子。鎌倉幕府の政所(まんどころ)執事として執権北条高時をたすけ,朝廷との折衝にあたる。護良親王の吉野挙兵では,幕府軍の吉野,千早(ちはや)城攻めにくわわり,敗れて降伏。幕府滅亡後,新政権に参加したが,謀反をくわだてたとして建武(けんむ)元年12月28日京都六条河原できられた。68歳。法名は道蘊(どううん)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「二階堂貞藤」の意味・わかりやすい解説

二階堂貞藤
にかいどうさだふじ

[生]文永4(1267)
[没]建武1(1334).12.28. 京都
鎌倉時代末期の武将。法名,道蘊 (どううん) 。元弘2=正慶1 (1332) 年幕府政所執事となった。賢才の誉れ高く,幕府滅亡後も,建武政権の雑訴決断所寄人となったが,陰謀のかどで誅せられた。

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