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二階堂貞藤 にかいどうさだふじ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

二階堂貞藤
にかいどうさだふじ

[生]文永4(1267)
[没]建武1(1334).12.28. 京都
鎌倉時代末期の武将。法名,道蘊 (どううん) 。元弘2=正慶1 (1332) 年幕府政所執事となった。賢才誉れ高く,幕府滅亡後も,建武政権の雑訴決断所寄人となったが,陰謀のかどで誅せられた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

二階堂貞藤 にかいどう-さだふじ

1267-1335* 鎌倉時代の武将。
文永4年生まれ。二階堂行藤の子。鎌倉幕府の政所(まんどころ)執事として執権北条高時をたすけ,朝廷との折衝にあたる。護良親王の吉野挙兵では,幕府軍の吉野,千早(ちはや)城攻めにくわわり,敗れて降伏。幕府滅亡後,新政権に参加したが,謀反をくわだてたとして建武(けんむ)元年12月28日京都六条河原できられた。68歳。法名は道蘊(どううん)。

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朝日日本歴史人物事典の解説

二階堂貞藤

没年:建武1.12.28(1335.1.23)
生年:文永4(1267)
鎌倉後期の吏僚。鎌倉幕府政所執事。父は行藤。法名は道蘊。永仁3(1295)年に幕府政所奉行人としてみえ,正安1(1299)年以降,鎌倉幕府末期に鎌倉と京都の調停のため,たびたび東使として上洛した。嘉暦4(1329)年の上洛では量仁親王(のち光厳天皇)の践祚・立坊の交渉の任に当たった。元徳2(1330)年に引付頭人,正慶1(1332)年に政所執事となる。元弘の変(1331)では幕府軍を指揮。北条氏滅亡後は建武政権の雑訴決断所に入ったが,六条河原で息子・兼藤らと共に斬られた。冷泉為相と交流するなど和歌・儒学に通じ自身「賢人」と自称した。禅宗に傾倒し,夢窓疎石を招いて鎌倉瑞泉寺を開き所領の甲斐国牧荘に恵林寺が建立された。<参考文献>多賀宗隼「二階堂貞藤の一書状」(『金沢文庫研究』214号),立花みどり「長崎氏と二階堂道蘊」(『鑑賞日本古典文学』21号),佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究』

(福島金治)

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世界大百科事典 第2版の解説

にかいどうさだふじ【二階堂貞藤】

1267‐1334(文永4‐建武1)
鎌倉末期の文官。幕府政所執事行藤の子。1320年(元応2)出家。法名道蘊(どううん)。32年(元弘2)政所執事。朝幕間の交渉にあたり幕末の重要な局面に活躍。正中の変で後醍醐天皇より北条高時に誓詞が送られたとき,〈天子武臣告文を与えた例は中国にも日本にもない〉と高時を諫めた逸話は有名(《太平記》)。幕府滅亡後も才学を惜しまれ,許されて建武政府に登用されたが,34年陰謀のかどにより子,孫とともに殺された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

二階堂貞藤
にかいどうさだふじ
(?―1334)

鎌倉末期の幕府政所執事(まんどころしつじ)。行藤(ゆきふじ)の子。通称三郎。出羽守(でわのかみ)となり、1320年(元応2)出家。法名道蘊(どううん)。幕末期に朝廷との交渉にも携わり、有力者の1人で、32年(元弘2)政所の執事となる。正中(しょうちゅう)の変に後醍醐(ごだいご)天皇が事件と無関係との誓書を執権北条高時(たかとき)に送ったとき、天子が武臣に誓書を与えた例はないと閲読を止めた。当時幕府随一の賢才といわれ、幕府滅亡後、許されて建武(けんむ)政府の雑訴決断所の職員となったが、34年(建武1)謀反に連座、京都六条河原で斬(き)られた。[百瀬今朝雄]

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