五稜郭跡(読み)ごりようかくあと

日本歴史地名大系 「五稜郭跡」の解説

五稜郭跡
ごりようかくあと

[現在地名]函館市五稜郭町・本通一丁目

函館市街の北東にある近世末期の洋式城郭で、箱館戦争(五稜郭の戦)の舞台となった。国指定特別史跡。安政元年(一八五四)一二月竹内保徳・堀利熙の両箱館奉行は、箱館を中心とする幕府領の統治、箱館開港による対外的関係の処理、海岸防備といった主要任務を遂行するため、箱館周辺の台場の整備と充実、箱館役所および支配向役宅の増改築ないし新築・移転を幕府に具申した。箱館湊に近い函館山麓に置かれていた箱館役所(箱館奉行所)の移転先に選ばれたのは、亀田村の奥、それまで柳野やなぎのとよばれていた緩やかな丘陵地の一画で、外国船からの砲撃を避けるため、海岸線より二・五キロほど内陸部に入っていた(安政元年九月「堀利熙上申書」幕末外国関係文書、同年一二月三日「箱館奉行伺」同文書、「函館市史」など)。設計・監督は諸術調所の教授方で蘭学者武田斐三郎が担当。西洋流土塁の構想はフランス築城法のオランダ語訳によったともいわれる。当初の計画(五稜郭初度設計図)では二重土塁・石垣築立であったが、莫大な経費と日数がかかるために変更され、一重土塁(五稜郭目鍮見図)となった。築造請負人は、箱館役所付御用達の佐藤半兵衛・山田寿兵衛・杉浦嘉七、箱館御用取扱北蝦夷地御直場所差配人元締の松川弁之助、小普請方石方鍛冶方請負人中川(伊勢屋)伝蔵、備前の石工嘉三郎の六名で、石垣の石は箱館山から切出した。

安政四年七月に掘割・土塁に着手、郭北側の一画に支配役宅、同心長屋五〇軒、定役仮宅三〇軒、組頭・調役など官宅一六軒、郭内の役所と付属建物などが設けられ、着工から足かけ八年をかけて元治元年(一八六四)六月に箱館奉行小出秀実が新奉行所に移った。当初は亀田役所土塁・柳野御陣営などともよばれ、建物など全容は文久二年(一八六二)の箱館亀田一円切絵図(市立函館博物館蔵)にみることができる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「五稜郭跡」の解説

ごりょうかくあと【五稜郭跡】


北海道函館市五稜郭町にある星形の西洋式城郭跡。平地に営まれ、平面が五稜形をしており、石塁、土塁をめぐらし、南西の函館湾方面に向かって大手の虎口(こぐち)を開いている。北および東にもまたそれぞれ虎口を開き、大手の前面のみにほぼ三角形状の馬出しが築かれている。周囲には亀田川の水を引く外濠がめぐらされ、その外側には北部を除いて稜形に土塁が連なり、虎口の左右馬出しと濠側は石垣で固められている。1854年(安政1)の日米和親条約締結による箱館(函館)開港にともない、13代将軍徳川家定の命により対外政策、北辺防備および蝦夷地(えぞち)統治のため箱館奉行の治所として奉行竹内保徳らによって築造された(設計担当は洋式軍学者、武田斐三郎(あやさぶろう))。大砲による戦闘が一般化した後のヨーロッパにおける稜堡(りょうほ)式の築城様式を採用し、堡を星形に配置している。総面積約25万m2、施工は土工事を松川弁之助、石垣工事を井上喜三郎、奉行所の建築を中川源蔵が請け負った。当初は外国の脅威に立ち向かうために築造が計画されたが、脅威が薄れていくとともに築造の目的が国家の威信になった。1868年(明治1)に裁判所を置いたが、ついで幕臣榎本武揚(たけあき)ら旧幕府脱走軍がこれに拠ったので、翌年、新政府軍(官軍)が攻撃し、これを降した。建造物は1872年(明治5)、開拓使によって改変されたところもあるが、よく旧状をとどめており、城郭史上重要であるとともに、幕末における洋学採用の一端を示すものとして学術上きわめて価値が高い。1922年(大正11)に国の史跡に、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定された。JR函館本線ほか五稜郭駅から徒歩約26分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

事典 日本の地域遺産 「五稜郭跡」の解説

五稜郭跡

(北海道函館市五稜郭町本通1)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

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