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奈良県の吉野川右岸(北側)にあった古代の宮(離宮)。元来の吉野は中央構造線の走る吉野川右岸の野や山を指しており,吉野寺(比曾寺とも,大淀町比曾),吉野山口神社(吉野町山口),吉野宮がこの地域に所在した。《古事記》《日本書紀》によれば,応神・雄略朝に吉野宮に行幸した記事がみえるが,確実には656年(斉明2)に造営されたとみるべきだろう。壬申の乱の勃発前夜に大海人皇子(後の天武天皇)は半年余吉野宮に隠栖していたし,679年(天武8)5月5日に天武天皇は皇后(後の持統天皇)や草壁皇子以下の6皇子と,吉野宮で有名な誓約を行っている。持統天皇は在位中に31回にわたり吉野宮に行幸した。その後,文武,元明,聖武各天皇が吉野宮(吉野離宮)に行幸した記録がみえる。特に聖武朝には一時期(724-732)吉野監が設置されていた。吉野宮の場所については,従来各種の説があったが,現在では吉野町宮滝の地にほぼ確定したとみてよい。宮滝遺跡は末永雅雄による第1次調査(1930-38),奈良県教育委員会による第2次調査(1975以降)により全容が解明されつつある。第1次調査により検出された石敷遺構は河岸段丘の第1段にあって,出土した軒丸瓦や軒平瓦から奈良時代後半のものと考えられるのに対し,第2次調査で検出された柵列や建物群は河岸段丘の第2段にあって方位を同じくし,第1次に比しやや古い時期の遺構と考えられる。今後の調査に待つところが大きいが,後者が吉野宮時代の遺構である可能性が強い。宮滝の地から南を見ると,象谷のはるかかなたに秀麗な青根ヶ峰を望むことができる。青根ヶ峰からは東へ音無川,北へ喜佐谷川,西へ秋野川が流れ出しており,また青根ヶ峰北斜面中腹の〈ヒロノ〉には吉野水分神社の旧社地が伝承されている。こうしたことを考えると,持統女帝が数多く吉野宮に行幸した理由の一つとして信仰にかかわることがあったかと想像される。
執筆者:和田 萃
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吉野川沿いに置かれた古代の離宮。『日本書紀』斉明天皇(さいめいてんのう)2年条に「吉野宮を作る」とあり、以来天武(てんむ)・持統・文武(もんむ)・元正(げんしょう)・聖武(しょうむ)の各天皇は、この離宮へしばしば行幸した。なかでも吉野行幸を繰り返したのは持統天皇で、正史にとどめる記事で33回を数える。この離宮の維持を目的に、奈良時代の前半期には芳野監(よしのげん)が置かれた。『日本書紀』には吉野宮のことは古くから記事があり、応神天皇(おうじんてんのう)天皇19年、雄略天皇2年、同4年の各条にみえる。倭王(わおう)が古くからこの土地に特別の関心をもっていたことが知られる。吉野川上流の吉野町宮滝(みやたき)で長年にわたり行われてきた発掘調査により、河岸段丘上で飛鳥時代から奈良時代の掘立柱建物や石敷・苑池遺構がみつかり、この宮滝遺跡が吉野宮の遺跡地と考えられている。
[狩野 久]
『奈良県立橿原考古学研究所編『宮滝遺跡 遺構編』(『奈良県史跡名勝天然記念物調査報告第71』・1996・奈良県教育委員会)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…敷石遺構は大量の奈良時代後期の瓦を伴い,その年代は平城宮造営時をさかのぼらないが,掘立柱建物などはそれよりも古い年代が推定できる。文献に記載のある吉野宮・吉野離宮の一部に相当する可能性が強いが,目下のところ確証はない。【泉 拓良】。…
…行宮(あんぐう)が臨時の施設であるのに対し,恒久的施設である点が異なる。 史上著名な離宮に,古代の吉野宮,珍努(ちぬ)宮の両離宮,中世の鳥羽離宮,近世の修学院(しゆがくいん)離宮などがある。吉野宮は《日本書紀》の応神紀に初めてみえ,壬申の乱前の大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)隠棲の地として,特に天武系皇統の行幸がしばしばあった。…
※「吉野宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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