井上郷
いのうえごう
中世、井上氏の支配した地域で、諏訪御符礼之古書(守矢文書)の文安三年(一四四六)に「井上庄」とある。井上氏は源頼信の子頼季が現須坂市井上に居住して井上氏を称し、その子満実は井上を中心に繁栄、井上・時田・須田・芳美・桑洞・米持・村山等在地名を姓とした。井上氏の支配地は井上を中心に井上十六郷と称した、仙仁・宇原・仁礼・栃倉・八町・野辺・井上・幸高・米持・九反田・中島・村山・灰野・塩野・福島・小坂等が推定される。
井上郷
いのへごう
「和名抄」伊勢本・東急本は「井乃倍」と読む。長岡京跡出土木簡に「阿波国名方郡井上庸」とあるのが初出である。「阿府志」は「渭ノ津・渭ノ山ト云ハ井上ノ残ル詞ナリ(中略)今云徳島大岡助任富田福島ナト也」として、渭ノ津・渭ノ山という地名と郷名を結び付けて、吉野川本流の河口に位置する徳島城下町・大岡(旧大岡浦村)・助任(旧助任町)・富田(旧富田浦村)・福島(旧福島浦村)という現徳島市市街地に比定する。これに対して「阿波志」、明治一八年(一八八五)編の名東郡郡誌、同一一年編の名東郡村誌のいずれもが鮎喰川西岸の井戸村(旧南井上村井戸、現徳島市)に比定している。
井上郷
いのえごう
「和名抄」高山寺本・流布本に「井上」と記し、流布本にのみ「井乃倍」と訓ずる。温泉郡の東北部に位置し、西は味酒郷、南は桑原郷、北は和気郡姫原郷に接する。郷域は広く道後温泉を中心として、江戸時代における道後・壱万・持田・石手(現松山市)の各村のほか、溝辺・湯山(現松山市)の二村にわたったと推察される。
井上郷
いのえごう
「和名抄」東急本は「井乃倍」、高山寺本は「為乃ヘ」の訓を付す。名博本は「イノウヘ」の訓を付す。山梨東郡の一つで、現東八代郡御坂町一帯を郷域としたと推定され、同町井之上にその遺称をとどめるが、郷の中心を同町黒駒方面に求める説(甲斐国志)、金川原付近とみる説(一宮町誌)、さらに東の同郡一宮町神沢・塩田・市之蔵から国分付近まで含むとする説もあって(綜合郷土研究)、一致をみない。御坂町二之宮・井之上に所在する二之宮・姥塚遺跡からは、古墳時代から平安時代にかけての合計五五〇軒に上る住居跡が確認されており、当郷の伝統的な拠点集落の一つとみなされている。
井上郷
いのえごう
「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、他国では伊予国新居郡の同名郷に「為乃倍」(高山寺本)、甲斐国山梨郡の同名郷に「井乃倍」(東急本)などの訓がある。井の字義は水の集まる所の意で、京田川・藤島川・赤川などの集まる最上川河口南部の低湿地帯にこの地形が求められる。「大日本地名辞書」は広野・新堀・袖浦(現酒田市)、栄(現鶴岡市)にわたる一帯に比定するが、妥当と思われ、京田川の自然堤防上には平安期の集落遺跡が散在する。
井上郷
いのうえごう
「和名抄」諸本ともに訓を欠く。「日本地理志料」では飯田・沖野・日辺・二木・今泉・種次・藤塚(現仙台市)にわたる地とする。
井上郷
いのへごう
「和名抄」東急本には「井乃倍」と訓を付す。中世には皇室領の井上郷が成立する。現木田郡三木町井上を遺称地とし、鹿伏・平木を含む三木町北部一帯に比定される。郷内に藤原宮式古瓦の出土する始覚寺跡がある。
井上郷
いのへごう
「和名抄」東急本には「井乃倍」と訓を付す。遺称地は不明であるが、「全讃史」などには上・下の法軍寺村と岡田四ヵ村とする。誤りでないとすれば、土器川右岸の現綾歌郡綾歌町の岡田地区と飯山町法軍寺地区の一帯に比定される。
井上郷
いのうえごう
「和名抄」に「井上」と記され、訓を欠く。「新編常陸国誌」に「按ズルニ、今ノ井上村ナリ」とあり、現行方郡玉造町井上に比定する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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