伊勢国分寺跡(読み)いせこくぶんじあと

日本歴史地名大系 「伊勢国分寺跡」の解説

伊勢国分寺跡
いせこくぶんじあと

[現在地名]鈴鹿市国分町 堂跡・西浦・上西谷・西高木

国分こくぶ集落西方の畑地堂跡どうあとを中心として約二〇〇メートル四方に伊勢国分寺跡の史跡境界杭が立てられている。ここが天平一三年(七四一)の詔によって建てられた伊勢国分寺の跡である。国指定史跡。伊勢国府の東北約八キロにあたり、古代東海道もこの近くを通っていたと思われ、しかも台地上にあって寺地に適した条件を備えている。付近一帯からはおびただしい古瓦を出す。域内西寄りに二〇×三〇メートルの樹木の生えた土壇跡があり、自然石の礎石数個が横たわる。この土壇が南北に長く、西の境界の土居に近いことなどから、この土壇を講堂跡とし、その東に金堂、次いで山門、東南方に塔を推定する伽藍東面説がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「伊勢国分寺跡」の解説

いせこくぶんじあと【伊勢国分寺跡】


三重県鈴鹿(すずか)市国分町にある寺院跡。鈴鹿川北岸の標高43m前後の丘陵地に位置し、周辺には弥生時代や古墳時代の遺跡も豊富で、この地方の先進地として早くから開けた地域にあり、奈良時代の741年(天平13年)に聖武天皇の詔勅によって建立された国分寺の一つ。かつては南大門などが立っていたが、戦国騒乱でほとんど焼失し、現在は講堂の礎石の一部が残るだけである。西南約7kmには伊勢国府跡長者屋敷遺跡)があり、さらに西南には鈴鹿関があって、古代の東海道のルート上にある3遺跡はほぼ一直線に並んでいる。寛政年間(1789~1801年)の『東海道名所図絵』にはこの地に「国分寺」の名があり、早くから伊勢国分寺とわかっていたようだが、宝暦年間(1751~64年)の『三国地誌』の記述によれば、瓦類が散在していたが遺構はすでに消滅していたと思われる。その後の調査の結果、江戸時代までは西側から南側にかけて鍵状に土塁が存在していたと推定される。この土塁は削られながらも1960年代までは存在していたが、現在は完全に消滅している。近年発掘調査が進められ、出土する軒丸瓦(のきまるがわら)も数種類あることがわかって、国分寺創建時の瓦ではないかと考えられている。1922年(大正11)に国の史跡に指定された。JR関西本線河曲(かわの)駅から徒歩約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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