会津美里(読み)あいづみさと

改訂新版 世界大百科事典 「会津美里」の意味・わかりやすい解説

会津美里[町] (あいづみさと)

福島県中西部,大沼郡の町,2005年10月会津高田(あいづたかだ)町,会津本郷(あいづほんごう)町と新鶴(にいつる)村が合体して成立した。人口2万2737(2010)。

会津美里町中南部の旧町。大沼郡所属。人口1万5564(2000)。会津盆地南西部,宮川上流域を占め,町域の8割は山林からなる。中心の高田は,宮川西岸の扇状地に位置し,陸奥国二宮で会津地方の総鎮守伊佐須美神社鳥居前町として発達,近世越後下野を結ぶ街道の宿駅であり,六斎市が開かれていた。南西に接する永井野とあわせ4kmにおよぶ街村をなしている。明治から大正にかけては郡役所も置かれ,現在も郡東部の商業中心地である。平地での米作のほか,山麓では梅,ヤクヨウニンジンを特産する。伊佐須美神社は毎年7月12日に行われる御田植祭で知られる。三重塔のある雀林の法用寺や《一字蓮台法華経》(国宝)を所蔵する高田の竜興寺など,古刹(こさつ)や文化財も多い。法用寺の西方には泥炭層からなる蓋沼の浮島がある。

会津美里町東端の旧町。大沼郡所属。人口6506(2000)。1992年本郷町が改称。会津盆地南縁に位置し,阿賀川をはさんで会津若松市に接する。中心集落の本郷は1561年(永禄4)会津藩主蘆名盛氏が弁天山に築いた岩崎城の城下町として栄えたが,75年(天正3)盛氏が再び黒川城(後の会津若松城)に移ったため,岩崎城下は衰退した。1647年(正保4)会津藩主保科正之が瀬戸から陶工を招いて製陶を始めさせたため,陶業の町となり,本郷焼は今日まで継承されている。明治20年代からは碍子の製造も盛んに行われ,窯業が町の主産業となっている。南東部一帯は大川羽鳥県立自然公園に属し,白鳳山公園は会津盆地を一望する景勝地である。

会津美里町北端の旧村。大沼郡所属。人口4102(2000)。会津盆地南西部に位置し,佐賀瀬川扇状地と鶴沼川(宮川)の氾濫原からなる平地がひろがる。平地は近世に開発された新田が多く,明治末期から耕地整理がすすめられて県下有数の水田地帯となっている。南西部の山麓一帯では,米田地区を中心に近世会津藩主が産業育成のために導入したヤクヨウニンジンの栽培が行われている。ほかに野菜,花卉,ワイン用ブドウも栽培されている。1926年国鉄会津線(現,JR只見線)が開通して新鶴駅が開設され,駅東側の新屋敷地区が村の中心である。根岸駅近くには中田観音の名で古くから近郷の信仰を集めている弘安寺がある。
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