佐野城跡(読み)さのじようあと

日本歴史地名大系 「佐野城跡」の解説

佐野城跡
さのじようあと

所在地は現在のあさひ町付近といわれるが確証はない。正平六年(一三五一)楠木正儀が築いたと伝えられ、同七年六月日の淡輪助重軍忠状(淡輪文書)に「自同九月六日迄于同十七日被構佐野城之時、抽軍忠畢」とみえる。天正五年(一五七七)二月織田信長が、石山いしやま本願寺(跡地は現東区)に支援を送っていた紀伊国雑賀衆を攻めた時、佐野に本陣を構えたこともあった。


佐野城跡
さのじようあと

[現在地名]更埴市桑原 佐野

更埴市桑原くわばらの佐野西方、高雄たかお山から東方に下がる尾根に築かれた山城である。本郭及び二の郭・三の郭からなる。本郭は南北三〇メートル、東西一五メートル。南方にある二の郭は南北六〇メートル、東西二〇メートル。北方にある三の郭は南北一五メートル、東西六メートルである。

築城は地元では桑原氏であるとするが、明らかでない。


佐野城跡
さのじようあと

[現在地名]宇佐市佐野 居屋敷

市立長峰ながみね小学校南側、光明こうみよう(佐野氏の菩提寺)とその東側一帯の丘陵地にある。現在、土塁が南側・西側に残存しているが、全体の規模は不明。地籍図には南側に水濠が明瞭に描かれているが、今は埋められ道路となった。佐野氏代々の居城で、土井どい城・佐野切寄ともいう。天正一一年(一五八三)一〇月八日、大友軍は戦死者や負傷者をかなり出しながらも「佐野切寄」を攻略し落城させた(同年一〇月一一日「大友義統感状写」・同月二八日「大友義統感状写」大友家文書録など)


佐野城跡
さのじようあと

[現在地名]久美浜町字佐野

佐野の東方丘陵、通称城山しろやまにある。山の裏手には城跡に通じる切通しが残り、中腹には井戸跡があり、殿谷とのだ的場まとばなどの地名が残る。

一色軍記」には「佐野城 佐野備前守 足利の浪士、本名不知、落城の後油池城にて打死」とある。「丹哥府志」は佐野村の項に「佐野備前守は一色氏の部将なり、天正十年四月六日長岡玄蕃頭興元の為に討死。法名常楽院殿広林禅定門といふ、位牌極楽寺に納む。其一族に佐野佐吉といふものあり此処の城主なり。天正十年長岡の軍起るにより佐野備前守一色の命をうけて油池の城よりここに移り長岡の軍と力戦す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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