倉見村(読み)くらみむら

日本歴史地名大系 「倉見村」の解説

倉見村
くらみむら

[現在地名]西桂町倉見

桂川右岸に位置し、北方の対岸は小沼おぬま村。同川沿いには河岸段丘が形成されているが、東・北・西の三方からは高山の尾根が迫っており、ほぼ尾根を限りとしてさかい(現都留市)小明見こあすみ(現富士吉田市)。建武元年(一三三四)五月三日、南部政長が「甲斐国倉見山」在家三宇、畠地・町屋等の所領を後醍醐天皇から与えられている(「後醍醐天皇綸旨」南部文書)。南部氏は本拠を陸奥国に移したのちも一部は依然甲斐に残って南朝方に属して戦いを続け、正平二二年(一三六七)六月二五日には南部信光が大和守の所領であった甲斐国かみ郷半分の地を与えられるなど(「後村上天皇綸旨」同文書)、この地域は南朝勢力が優勢であったことがうかがえる。享禄二年(一五二九)小山田信有の母が遠州からの帰路、「クラミノ」新九郎の館に一泊している(勝山記)。この倉見氏は小山田氏の家臣と思われ、館跡と伝える場所が内屋敷うちやしきにある。また永正九年(一五一二)四月には倉見の法祐寺大門にある大杉が燃え、これに驚いて人々は祈祷や託宣をしたとあり(同書)、法祐寺は現在の宝養ほうよう寺であるとされる(甲斐国志)


倉見村
くらみむら

[現在地名]津幡町倉見

杉瀬すぎのせ村で津幡川に注ぐ倉見川の谷間に位置。谷の奥から大谷内おおやち伴登ばんどう出村でむらの小集落が続き、南に離れて宮谷みやんたにがある。「三州地理雑誌」には倉見川の東西両岸に本村があるとし、前掲の伴登に替えて暉谷てるだにを記載。「天文日記」天文六年(一五三七)九月一四日条によると、「倉見番頭・同六郎左衛門」両人が番田ばんだ(九折北東の越中境の山、御坊山とも)を盗み注意されたため、山主を打擲するなど刃傷事件を起こした。このとき近くの寺尾光現てらおこうげん寺新発意も山主のために番頭らを注意したが、かえって山主同様打擲を加えられたという。一向一揆体制下の河北郡中ならびに鳥越弘願とりごえぐがん寺ら五番組はこの事件を重視し、両人を成敗し、この旨旗本山田四郎右衛門に届けたが、番頭らは番田山違乱に山田氏の親類である莇谷衆を参加させることによって山田氏の黙認を得ていたので、山田氏は番頭らの成敗を承諾しなかったという。


倉見村
くらみむら

[現在地名]加茂町倉見

北は因幡国智頭ちず佐治さじ(現鳥取県八頭郡佐治村)、東は阿波あば(現阿波村)、南は東黒木ひがしくろぎ村・西黒木村、西は上才原かみさいばら(現上齋原村)に接する山村。倉見川は源を扇谷おうぎや山とし、南流して数本の小流を合せ、戸賀とか村などを経て小中原こなかばら村付近で加茂川に注ぐ。天明三年(一七八三)に東西に分郷したという(東作誌)正保郷帳に高一〇五石余、うち田方八八石余・畑方一七石余とある。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高二二石余・開高四二石余。享和元年(一八〇一)の村明細帳(広戸文書)によれば、田方一二町四反余・一五五石余、畑方二町三反余・二四石余、家数三八・人数一五五。


倉見村
くらみむら

[現在地名]鳥取市桂見かつらみ

布勢ふせ村の南、湖山こやま池の南東湖岸に位置する。延暦二〇年(八〇一)奈良東大寺高庭たかば庄の経営意欲を失っていることを伝え聞いた参議藤原縄主は、葦原の混じる「倉見葦原」四五町七反九〇歩の地などを稲四千石で購入することを申入れた。東大寺三綱は同寺には開発する力がなく、将来無用の地になるであろうとし縄主に売却した。このときの見開田は一町四反二〇四歩のみであった(同年一二月一六日「東大寺三綱牒案」東南院文書)。縄主らの開発により弘仁四年(八一三)には六町二反三五六歩に増え(同年七月二日「因幡国東大寺田勘文」同文書)、その後の東大寺による全国的規模での寺領の荒田復旧・失地回復運動のなかで、承和九年(八四二)国司・寺使立会いのもとで高庭庄の寺田の勘定が行われた際、当地の見開田は二三町七反四七歩となっている(同年七月二四日「因幡国司解」同文書)


倉見村
くらみむら

[現在地名]豊岡市倉見

出石いずし郡に属し、同郡上鉢山かみはちやま村およびその東の長谷ながたに村の南に位置する。村域中央部を六方ろつぽう川が北流。はじめは出石藩小出氏領であったが(「寛文朱印留」など)、寛文六年(一六六六)小出吉重の襲封に伴い当村などの二千石が同英本に分知され、以後旗本小出氏の知行地として幕末に至る(「寛政重修諸家譜」、明治二年「村々高反別書上帳」斎藤家文書)。同氏は当村に陣屋を置いたため倉見小出氏と通称される。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高四五〇石余。寛政七年(一七九五)から同一一年までの五ヵ年平均物成帳(神美区有文書)でも同高、小物成は山手役米一石余・茶役米二石八斗余・藁役銀二七匁余・糠役銀六匁余・桑役真綿九八一匁余、鎮守は国知くにしり大明神(現国知神社)


倉見村
くらみむら

[現在地名]寒川町倉見

西を相模川が流れ、東部は丘陵をなす。小動こゆるぎ村・宮山みややま村の北にある。小田原衆所領役帳に山中彦八郎「卅貫文 東郡一宮内倉見」とある。正保国絵図には「倉見」とみえる。享保七年(一七二二)旗本高木・佐野領の二給。天保一四年(一八四三)の農間商人名前取調書上控帳(県史八)によれば農間商人は二五人と多く、内訳は質物・酒小売・豆腐・菓子果物・穀類・荒物・醤油作り・にごり酒造り・下駄打などがあった。天和三年(一六八三)の東海道宿村道場間数高書帳(大和市史四)によれば二里先の東海道二一三間の掃除役を勤めた。文政三年(一八二〇)には藤沢宿の加助郷を勤め(「藤沢宿および立場書上帳」藤沢市史二)、嘉永三年(一八五〇)代助郷高二六六石を課せられた(「東海道藤沢宿助郷帳」同書)


倉見村
くらみむら

[現在地名]柵原町安井やすい

安井村の西に位置する。正保郷帳に村名がみえ、田五九石余・畑四〇石余。元禄二年(一六八九)の差出控(弓斎収集史料)では高一二四石余、林山二町歩余、家数一二(うち本百姓六・家来六)。「東作誌」では毛付高九七石余、家数一二、男二四・女一九。溜池は当村と安井・百々どうどう三ヵ村持のおなだに池、当村と安井持の奥谷池・仙谷池。出雲往来勝間田かつまだ宿(現勝田郡勝央町)の助郷村で、文化一一年(一八一四)の出雲松江藩主の通行時には人足二人、勝山藩主・備中新見藩主のときには、入用合せて五分余を負担した(「助合村々書上帳」赤堀文書)


倉見村
くらみむら

[現在地名]三方町倉見

三方郡の最南端に位置し、東は近江国高島たかしま(現滋賀県)丹後街道が通り、倉見峠(安賀里峠とも)を越えると遠敷おにゆう郡。近世には宿駅的機能を果し、明治初年伝馬所が廃されたのちは人馬継立所が設けられた。中世は倉見庄として推移、弘治二年(一五五六)の明通寺鐘鋳勧進時入目下行日記(早稲田大学図書館蔵)に「廿文 くらミにて酒」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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