傅山(読み)ふざん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「傅山」の意味・わかりやすい解説

傅山
ふざん
(1607―84?)

中国、明(みん)末清(しん)初の書画家、詩人。初名は鼎臣(ていしん)。字(あざな)は青竹、のち青主と改めた。号は石道人、真山など非常に多い。太原(たいげん)(山西省)の人。学者の家に生まれ、若いころから経史諸子はもちろん道仏にまで通じ、碩学(せきがく)で知られた。明の滅亡後は諸方に流寓(りゅうぐう)して医術を業とし、明の遺民として清朝反抗の意を表明して、招かれても終生仕えなかった。書は初め晋(しん)唐の楷書(かいしょ)や趙孟頫(ちょうもうふ)などを習い、のちに顔真卿(がんしんけい)を学んだが、ついに巧媚(こうび)軽滑を排して真率を求める境地に達し、放逸な連綿草をよくして王鐸(おうたく)と並び称せられる。画(え)は、山水磊落(らいらく)にして骨法優れ、墨竹は気韻があると評されている。作品集に『傅山書画選集』、文集に『霜紅龕(そうこうがん)集』がある。

[筒井茂徳]

『『書跡名品叢刊190 傅山集』(1974・二玄社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「傅山」の意味・わかりやすい解説

傅山 (ふざん)
Fù Shān
生没年:1607-84

中国,明末・清初の書画家。陽曲(山西省太原)の人。初名は鼎臣。字は青竹,のちに青主。号は嗇廬(しよくろ),丹崖翁,僑黄老人など多数ある。幼少から典籍を精読し,山西省晋陽の三立書院で袁継咸(えんけいかん)の門下生の第一に抜擢された。明の滅亡後,遺民としての節をまげず,道士の身なりをして清朝への反抗の意志を示し,1678年(康煕17)博学鴻詞科に推されたが,病と称して出仕を拒んだ。書ははげしい筆致の草書により胸中の逸気を吐露した。画も山水,墨竹,花卉などを草体で描いた。詩文にすぐれ,著に《霜紅龕集(そうこうがんしゆう)》がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「傅山」の意味・わかりやすい解説

傅山
ふざん
Fu Shan

[生]万暦35(1607)
[没]康煕23(1684)
中国,明末,清初の文人画家,書家。太原 (山西省) ,一説に陽曲 (山西省) の人。字は青竹,青主。号は嗇廬 (しょくろ) ,朱衣道人など多数。歴代の学者の家に生れ,詩文,書画に秀でた。明朝末の京城事変ののち,清を嫌って道士を装い医を業とした。清朝が確立すると,康煕帝から出仕の命を受けたが固辞し,故郷に帰った。個性的な墨竹や山水画を描き,特に書は草書,篆刻にすぐれた。『霜紅龕集』の著書がある。子の傅眉 (1628~82) も詩・書・画・篆刻にすぐれていた。

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百科事典マイペディア 「傅山」の意味・わかりやすい解説

傅山【ふざん】

中国,清初の文人画家,書家。字は青竹,青主。号は嗇廬,朱衣道人など。広く経史に通じ,詩文も巧みで,医術にも長じたという。画は山水墨竹を得意とし,書は趙孟【ふ】顔真卿を学んであらゆる書体をよくした。

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世界大百科事典(旧版)内の傅山の言及

【清代美術】より

…苦悩や絶望すらも自己の享楽としたオプティミズムと国力の最隆盛期を迎えた商業都市の粋な美しさ,既成の画法にとらわれぬ奔放で野生的な筆描が彼らの特色である。また康熙年間は八大山人,石濤(せきとう),傅山(ふざん),徐枋(じよぼう)など前王朝の遺民が画家として活躍した時期でもある。なかでも八大山人と石濤の2人は明朝宗室の末裔にあたり,共に僧籍に入ったが,既成の権威を無視した独自の表現により,亡国の憂憤を画面にぶつけることで,世俗を超越したきわめて独創的な画風を展開した。…

※「傅山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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