中国,唐の忠臣,書家。字は清臣。顔平原,顔魯公と呼ばれる。北斉の学者顔之推5世の孫。開元22年(734)進士となり,のち,醴泉尉(れいせんい),長安尉,監察御史,殿中侍御史,東都採訪判官,武部員外郎を歴任して753年に平原(山東省陵県)太守に転出。翌々年に安史の乱が起こり,河北・山東各地は安禄山の勢力下に入ったが,顔真卿は従兄の常山(河北省正定)太守顔杲卿(がんこうけい)と連絡をとり,義軍をあげて唐朝のために気を吐いた。756年(至徳1),平原を放棄,翌年,鳳翔(ほうしよう)(陝西省)の粛宗のもとに行き,憲部尚書に任命され,つき従って長安に帰った。これがもっとも得意な時期であった。その後の20年間に3回地方に出され,3回長安に帰って中央政府に入り,刑部・戸部・吏部各侍郎,尚書右丞,刑部・吏部各尚書を歴任した。地方転出は,宦官李輔国,宰相元載などの権力者ににくまれたからである。778年(大暦13),代宗が没すると礼儀使となり,780年(建中1)には太子少師,782年,太子太師となったが,宰相盧杞(ろき)ににくまれ,783年,淮西(わいせい)でそむいた李希烈を招諭するという至難な使命を授けられ,汝州(河南省)に赴いて捕らえられ,蔡州(河南省)に送られ,785年(貞元1),希烈の部下に殺された。
顔氏の家系には能書の人が多い。とくに5代の祖顔之推以来,陳郡の殷氏と通婚しているが,殷氏からも能書家が輩出している。顔真卿の母も殷氏の出で,真卿には顔・殷両家の能書の血が流れていたと考えられる。書人としての真卿は,それまで中国の書の主流をなしていた王羲之流の典雅な書法に反発して,書の革新をめざし,終始正鋒(直筆(ちよくひつ))をもって書き,力強さの中に美しさをこめた独特の楷書をあみ出した。主な楷書作品には,《千福寺多宝塔碑》(752),《東方朔画賛碑》(754),《麻姑仙壇記》(771),《顔氏家廟碑》《自書告身》(以上780)があり,草書作品に《祭姪文稿(さいてつぶんこう)》《祭伯文稿》(以上758),《争坐位帖》(764)などが伝わっている。
執筆者:外山 軍治
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中国、唐代中期の政治家、書家。琅邪臨沂(ろうやりんぎ)(山東省)の人であるが、陝西(せんせい)長安に生まれる。字(あざな)は清臣。父は惟貞(いてい)。北斉の顔之推(がんしすい)5世の従孫にあたり、代々学者、能書家を輩出した名家の出である。幼くして父を亡くしたが、伯父や兄から教えを受け、少壮より書をよくし、博学で辞章に巧みであった。734年(開元22)26歳で進士に合格し、のち刑部尚書(ぎょうぶしょうしょ)、吏部尚書、礼儀使などの高位に上った。玄宗皇帝の755年(天宝14)安禄山(あんろくざん)の反乱時には、平原太守としてただ1人義兵をあげ、唐朝のために気を吐いた。その後、魯(ろ)郡開国公を封ぜられ太子太師(たいしたいし)を授けられたが、生来剛直な性格の旧派の彼は、人と相いれることなく、とかく敬遠されがちで官界を転々とした。やがて李希烈(りきれつ)謀反のとき、死を覚悟して諭(さと)しに出向き逆に捕らえられ、拘留3年ののち蔡(さい)州(河南省)竜興寺(りゅうこうじ)において殺された。
書は草書の名手張旭(ちょうきょく)から筆法を授かったというが、楷行草各体に多肉多骨の書風を創始した。肉太の線と胴中を張らせた構成、それにどっしりした量感は顔真卿の全人間性を表出したものであり、開元・天宝期の様式を確立した中心人物であるといっても過言ではない。虞世南(ぐせいなん)、欧陽詢(おうようじゅん)、褚遂良(ちょすいりょう)と並び「唐四大家」と称せられるが、初唐のころ盛行した優美な王羲之(おうぎし)風とはまったく異なる、強烈な書風を示している。おもな作品に多宝塔碑、祭姪(さいてつ)文稿、麻姑仙壇記(まこせんだんき)、争坐位稿(そうざいこう)、顔氏家廟碑(がんしかびょうのひ)などがあり、『顔魯公文集』などの著がある。
[角井 博]
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709~785頃
唐の士人,書家。京兆万年(陝西(せんせい)省長安県)の人。安史の乱中,平原(山東)太守として義勇軍を率いたが失敗。藩鎮李希烈(りきれつ)の反乱のとき,使者となり反乱軍に捕えられて殺された。王羲之(おうぎし)の典雅な書風に対し,革新的な力強い書風を始めた。
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…唐の中期,再び塩の専売が本格化する。755年(天宝14)の安史の乱による軍費調達のため,河北で顔真卿が食塩の官売をはじめ,その経験をふまえて758年(乾元1),塩鉄使の第五琦(だいごき)が解塩と井塩,ついで海塩の専売制を断行した。産塩地には榷塩院(かくえんいん)を置き,亭戸,畦(けい)戸などと呼ばれる生産者を隷属させて,全生産を管理し,できた塩に原価の数十倍から100倍に及ぶ専売益金をかけて売りさばいた。…
…中国,唐の顔真卿の代表的な楷書作品。文も彼の手になる。…
…彼らは揮毫する前に大酒を飲んで気分を誘発し,屛風や牆壁(しようへき)など広い空間に向かって,一気呵成,縦横無尽に奔放な草書を書き放った。唐の中ごろに出た顔真卿は,王羲之の書を十分修得したうえで,張旭,懐素らとも親しく交わり,豪毅にして生命感のあふれる書風を打ち出し,宋以後の革新的な書を生み出す大きな原動力となった。その代表作に,楷書の《多宝塔碑》《麻姑仙壇記》《顔氏家廟碑》などがあり,行草の《祭姪文稿》《祭伯文稿》《争坐位帖》はとくに有名で,三稿と呼ばれている。…
※「顔真卿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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