入山村
いりやまむら
[現在地名]六合村入山
上越国境の上ノ間・白砂・堂岩・大高・赤石などの標高二〇〇〇メートルを超す山が北側に、木戸・相ノ倉・松岩などの山が東に、鉢・横手・白根などの山が西にそびえ、村域は現六合村の大半を占める。三国山脈の奥深くに源をもつ白砂川と、大高山・赤石山南面および横手山・白根山の間芳ヶ平からの流れとが合流した長笹沢川によって山間の集落に分けられた。平家・源氏・木曾義仲などの落人伝説が多い。
草津村(現草津町)などとともに草津谷に含まれ、湯本氏領であった(→草津村)。万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写によると高一三二石余。寛文郷帳でも同高で、すべて畑方。寛文三年(一六六三)の沼田藩領新検地控では高六二一石余、貞享二年(一六八五)沼田藩領再検地控では高一二二石余。元禄郷帳では幕府領。当地域は生活条件が厳しくしばしば凶作に見舞われている。
入山村
いりやまむら
[現在地名]長野市入山
南は裾花川をもって小鍋村・田中村と境し、東・北は広瀬村と境し、西は上野村と谷川をもって境する。慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に「八百五拾五石八斗四升三合 入山村」とあるのが村名の初見である。
中世は弘瀬庄に属し、入山郷と称した(「春秋之宮造宮之次第」諏訪大社上社文書)。元禄の松城領高辻帳の添目録(大日方文書)に上犬飼村・中犬飼村・下犬飼村・萩窪村・大平村・上平村・沢尻村・曲戸村・下宮村・岩戸村・清水村の一一ヵ所を記し、江戸時代初期から散在村落であった。文化六年(一八〇九)の人口は入山村本村が六〇八人、清水組二六二人(松城領封内人員)で、弘化四年(一八四七)の善光寺地震には家数二〇〇軒のうち焼失潰れ四〇軒ほど、死失二〇人があったが、田畑の抜落ちはいたって少なかった(むしくら日記)。
入山村
いりやまむら
[現在地名]由比町入山
現町域の北部を占める山間の村。南は東山寺村、東は神沢村(現蒲原町)、北は内房村(現芝川町)など、西は小河内村(現清水市)。中心集落は由比川の川下側から左岸に向山・諸木沢、右岸に山内・中村があり、いずれも同川が形成した河岸段丘上に位置する。当村の字数は二三〇を数える。同川をさらにさかのぼると数本に分流し、上流に舟場・香木穴・福沢・大城・桜野・槍野の小集落がある。住民の名字は望月・佐野が多く甲州武田氏との関係をうかがわせる。
入山村
いりやまむら
現市山に比定され、市山の旧名とされる。大隅国建久図田帳には菱刈郡一三八町一反のうちに入山村がみえる。筑前国筥崎宮(現福岡市東区)の浮免田で、源頼朝下文を与えられて千葉兵衛尉が知行するとある。千葉氏は宝治元年(一二四七)の宝治合戦で没落しており、入山村も千葉氏の手を離れたと思われるが詳細は不明。文永元年(一二六四)二月八日には島津道忍(久経)から小苗代薬師如来仏供として入山のうち中園門九反三〇・松之本二反三〇・薩摩迫一反二〇・垣本三反・藤木(藤本か)三〇を寄進されており、あるいは島津氏が地頭職を得ていたものか(「島津道忍寄進状」旧記雑録)。
入山村
いりやまむら
[現在地名]松井田町北野牧
甘楽郡に属し、入山川が刻んだ河谷とわずかに広がる後背地に展開する村落で、碓氷郡入山村の南にある。古代・中世は碓氷郡に属していたが、中山道の整備および関東の備えである碓氷関の設置とその支えである西牧関(現甘楽郡下仁田町)の充実のために甘楽郡に移された(覚抜書「松井田町誌」所収)。西牧関から中山道筋へ三里ほどで抜道できるので、妙義山の麓中木山に番を置き、山麓にある漆萱村(現下仁田町)・恩賀村・入山村を西牧領(幕府領)に移して、抜道ができないようにしたという(年次不詳「関所由緒書」小林文書)。
入山村
いりやまむら
[現在地名]松井田町入山
原村の西南にある。碓氷川支流入山川およびその支流である遠入川と、中山道の代表的な裏街道入山道に沿って開かれた村。入山峠を越えると信濃国であるが、東山道もこの峠を通ったと想定されている。元亀三年(一五七二)六月九日付武田家定書(県庁蔵)によると「入山」五〇貫文の代官に高山彦兵衛が任じられている。この「入山」は当村から甘楽郡入山辺りをさすと考えられる。
入山村
いりやまむら
[現在地名]門前町入山
黒岩村の東、仁岸川中流北岸の平地と丘陵に立地。通称カナクソの地名があり、製鉄遺跡が残る。正保郷帳では高一一二石余、田方五町七反余・畑方一町七反。承応三年(一六五四)の村御印の高九八石余、免五ツ三歩(能登奥両郡収納帳)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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