八幡浜(市)(読み)やわたはま

日本大百科全書(ニッポニカ) 「八幡浜(市)」の意味・わかりやすい解説

八幡浜(市)
やわたはま

愛媛県西部、佐田岬(さだみさき)半島の付け根に位置する市。南は宇和海、北は伊予灘(なだ)に面し、大島などの島々を含む。1935年(昭和10)八幡浜神山(かみやま)の2町と千丈(せんじょう)、舌田(しただ)の2村が合併して市制施行。1955年(昭和30)双岩(ふたいわ)、真穴(まあな)、川上、日土(ひづち)の4村を編入。2005年(平成17)保内町(ほないちょう)を合併。JR予讃(よさん)線、国道197号、378号が通じ、九州の別府(べっぷ)港、臼杵(うすき)への定期船便がある。市名は八幡神に由来し、古くから八幡浜浦とよばれてきた。市街地はリアス海岸の湾頭、千丈川や五反田(ごたんだ)川の沖積地に発達し、江戸時代は宇和島藩の商港として大坂や長崎などとの交易で栄え、「伊予の大坂」と称された。また、保内地区は、中世、近世保内郷の地であり、中心集落の川之石は良港として知られる。

 産業のうち、水産業はイワシ漁業の歴史が古く、その後、豊後(ぶんご)水道へのトロール漁業基地ともなり、以西底引網漁業にも進出している。トロール漁によるエソホタルジャコなどはかまぼこてんぷら(さつまあげ)などの練り製品に利用される。四国一といわれる魚市場がある。ミカン栽培は向灘(むかいなだ)や真穴の品質が優れ、全国的にも知られ、伊予柑(いよかん)の生産も多い。両地区は明治から昭和にかけてアメリカへの移住者を多く出した。保内地区においても、柑橘(かんきつ)類の栽培や漁業が盛ん。江戸時代におこった五反田縞(じま)は絹綿の交織布で、明治期には大生産地になったが、昭和期になって衰退した。商業活動は活発で、佐田岬半島や大洲(おおず)市までを商圏としているが、狭い土地への人口集中で地価が高く、大洲市などへ住宅地を求める傾向がある。近年、港湾の埋立てが進行し、市役所などの移転をみた。保安寺(ほあんじ)の木造阿弥陀如来及び両脇侍坐像(藤原時代)は国指定重要文化財。県指定無形民俗文化財に長命講伊勢(いせ)踊、五反田柱祭がある。諏訪崎には自然休養林があり、遊歩道も整備されている。大島(人口267。2015年)は八幡浜港からの定期船便があり、農業と漁業が行われる。大島にある断層岩のシュードタキライトは「地震の化石」ともいわれ、国の天然記念物。面積132.65平方キロメートル、人口3万1987(2020)。

[横山昭市]

『『八幡浜市誌』(1987・八幡浜市)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例