八王の乱(読み)ハチオウノラン

デジタル大辞泉 「八王の乱」の意味・読み・例文・類語

はちおう‐の‐らん〔ハチワウ‐〕【八王の乱】

中国、西晋末の291年から306年まで続いた内乱武帝司馬炎)の死後、外戚間の抗争から一族の有力な八人の王が政権を争い、西晋の滅亡を早めた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「八王の乱」の意味・わかりやすい解説

八王の乱
はちおうのらん

中国、西晋(せいしん)の内乱。外戚(がいせき)間の抗争に宗室司馬(しば)氏が巻き込まれ、8人の藩王が政権を争った。

[安田二郎]

前期

西晋開祖の武帝(司馬炎)は同族に軍権を握らせて藩屏(はんぺい)としたが、晩年、外戚楊(よう)氏が政治を壟断(ろうだん)して不満が高まった。第2代恵帝の皇后賈(か)氏は権力の掌握を図り、藩王を唆して楊氏一党を滅ぼしたものの、実権は宗室の長老汝南(じょなん)王亮(りょう)に帰することになった。このため賈氏は偽詔して楚(そ)王瑋(い)に亮を殺させたのち、瑋を殺して権力を手中に収めた(291)。

[安田二郎]

後期

専権10年の賈氏が皇太子を廃殺すると、反発を強めていた趙(ちょう)王倫(りん)が挙兵して賈氏一党を滅ぼした(300)。しかし倫も恵帝から帝位を奪って斉(せい)王冏(けい)らの起義軍に敗れ(301)、恵帝を復位させた冏も専権に走って長沙(ちょうさ)王乂(がい)のクーデターで殺され(302)、乂も成都王穎(えい)、河間王顒(ぎょう)らの連合軍に討たれた(303)。いったんは穎が鄴(ぎょう)(河北省)に拠(よ)って朝権を専制したが、鮮卑(せんぴ)族と結ぶ軍閥の王浚(おうしゅん)に大敗して失脚し、実権は、長安(陝西(せんせい)省)に拠る顒に移った(304)。その顒も山東省から進撃した東海王越に敗れて、覇権は恵帝、ついで懐帝を擁する越の手に帰した(306)。この間、兵乱は地方にまで広がって、流民反乱、軍閥の自立、諸勢力が軍事力に利用した非漢民族の興起が相次いで「永嘉(えいか)の乱」となり、まもなく越も前趙の石勒(せきろく)軍に苦戦して憂死し(311)、事実上、西晋は滅亡、五胡(ごこ)十六国から南北朝へと続く分裂と混乱の時代が始まった。

[安田二郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「八王の乱」の意味・わかりやすい解説

八王の乱
はちおうのらん
Ba-wang zhi luan; Pa-wang chih luan

中国,代に起った政権争い (291~306) 。晋王室の一族8人が中心になったので八王の乱という。太煕1 (290) 年武帝が没し恵帝が立つと,皇太后楊氏一族が政治をほしいままにした。これに不満をいだく皇后賈 (か) 氏は,汝南王亮,楚王いに楊氏を討たせた。楊氏没落後は汝南王が太宰となったが,賈氏は楚王に汝南王を殺させ,そのうえ楚王に汝南王殺しの罪を着せて処刑した (291) 。こうして賈氏一族が以後 10年間にわたり政治を独占した。これが乱の前半である。永寧1 (301) 年それまで賈皇后の信頼を得ていた趙王倫が賈后誅滅をはかって兵をあげ,賈后を倒すとともに恵帝を廃した。それに対し斉王冏 (けい) ,成都王穎 (えい) らが洛陽に入り,趙王を殺し恵帝を再び位につけた。以後長沙王乂 (がい) ,東海王越,成都王穎,河間王ぎょうらが次々に指導権を握っては倒されるという混乱が続き,光煕1 (306) 年東海王越が懐帝を立てることによって終結をみた。この乱によって司馬氏の宗室の有力者が倒れ,また各王が兵力増強のために,匈奴鮮卑などの異民族を引入れたので,やがて永嘉の乱が起り,晋が南渡して,華北は五胡十六国時代を迎えることになる。

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改訂新版 世界大百科事典 「八王の乱」の意味・わかりやすい解説

八王の乱 (はちおうのらん)

中国,西(265-316)末,趙王ら八王の内乱。晋は一族の諸王に軍事権を与えて藩屛とした。恵帝のとき外戚楊氏が政権を壟断(ろうだん),皇后賈氏が諸王を引き入れて楊氏を滅ぼし,内乱の端緒が開かれた(291)。ついで賈氏の専権に反発した諸王が挙兵して賈氏を誅滅(300),その後7年間にわたり政権を争って興亡し,大混乱に陥った。この内乱で諸王が軍事力に導入した北方諸民族が華北に自立,永嘉の乱が始まって西晋王朝は滅亡する。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「八王の乱」の解説

八王の乱(はちおうのらん)

西晋末の内乱。290年武帝が没し恵帝が立つと,外戚楊氏(ようし),賈氏(かし)が政権を争い,賈氏が汝南(じょなん)王亮(りょう),楚(そ)王瑋(い)を利用して実権を握ると,趙(ちょう)王倫(りん)は賈氏を滅ぼし恵帝を退位させたので,諸王が蜂起してこれを討った。ついで斉王冏(けい),長沙王乂(がい),成都王穎(えい),河間王顒(ぎょう)が次々に政権を握り,最後に306年東海王越(えつ)が懐帝を擁して実権を握った。この混乱が五胡の侵入を招くに至った。

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旺文社世界史事典 三訂版 「八王の乱」の解説

八王の乱
はちおうのらん

西晋末期の290年から306年まで続いた戦乱
司馬炎(武帝)の死後,その子恵帝の暗愚に乗じて妃の賈氏 (かし) とその一族が勢力を独占しようとしたことから,司馬氏一族の諸王が争った。有力な8王が周辺民族をその軍事力に導入したため,華北は五胡に荒らされ,西晋の滅亡を招いた。

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世界大百科事典(旧版)内の八王の乱の言及

【外戚】より

…また西晋では,武帝の死後,その皇后楊氏の一族と,武帝のあとをついだ恵帝の皇后賈(か)氏の一族とが覇を争い,賈氏一党が楊氏一党を誅滅して横暴をきわめることになった。賈后および賈氏一党の横暴が八王の乱を誘発する原因になり,それがやがて異民族の華北席巻を許し,西晋王朝の滅亡と漢文明の危機を招来する結果となったのである。【川勝 義雄】 外戚はまた,ある人物からみて母方および妻方の親族を意味する。…

※「八王の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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