中国、西晋(せいしん)の内乱。外戚(がいせき)間の抗争に宗室司馬(しば)氏が巻き込まれ、8人の藩王が政権を争った。
[安田二郎]
西晋開祖の武帝(司馬炎)は同族に軍権を握らせて藩屏(はんぺい)としたが、晩年、外戚楊(よう)氏が政治を壟断(ろうだん)して不満が高まった。第2代恵帝の皇后賈(か)氏は権力の掌握を図り、藩王を唆して楊氏一党を滅ぼしたものの、実権は宗室の長老汝南(じょなん)王亮(りょう)に帰することになった。このため賈氏は偽詔して楚(そ)王瑋(い)に亮を殺させたのち、瑋を殺して権力を手中に収めた(291)。
[安田二郎]
専権10年の賈氏が皇太子を廃殺すると、反発を強めていた趙(ちょう)王倫(りん)が挙兵して賈氏一党を滅ぼした(300)。しかし倫も恵帝から帝位を奪って斉(せい)王冏(けい)らの起義軍に敗れ(301)、恵帝を復位させた冏も専権に走って長沙(ちょうさ)王乂(がい)のクーデターで殺され(302)、乂も成都王穎(えい)、河間王顒(ぎょう)らの連合軍に討たれた(303)。いったんは穎が鄴(ぎょう)(河北省)に拠(よ)って朝権を専制したが、鮮卑(せんぴ)族と結ぶ軍閥の王浚(おうしゅん)に大敗して失脚し、実権は、長安(陝西(せんせい)省)に拠る顒に移った(304)。その顒も山東省から進撃した東海王越に敗れて、覇権は恵帝、ついで懐帝を擁する越の手に帰した(306)。この間、兵乱は地方にまで広がって、流民の反乱、軍閥の自立、諸勢力が軍事力に利用した非漢民族の興起が相次いで「永嘉(えいか)の乱」となり、まもなく越も前趙の石勒(せきろく)軍に苦戦して憂死し(311)、事実上、西晋は滅亡、五胡(ごこ)十六国から南北朝へと続く分裂と混乱の時代が始まった。
[安田二郎]
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西晋末の内乱。290年武帝が没し恵帝が立つと,外戚楊氏(ようし),賈氏(かし)が政権を争い,賈氏が汝南(じょなん)王亮(りょう),楚(そ)王瑋(い)を利用して実権を握ると,趙(ちょう)王倫(りん)は賈氏を滅ぼし恵帝を退位させたので,諸王が蜂起してこれを討った。ついで斉王冏(けい),長沙王乂(がい),成都王穎(えい),河間王顒(ぎょう)が次々に政権を握り,最後に306年東海王越(えつ)が懐帝を擁して実権を握った。この混乱が五胡の侵入を招くに至った。
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…また西晋では,武帝の死後,その皇后楊氏の一族と,武帝のあとをついだ恵帝の皇后賈(か)氏の一族とが覇を争い,賈氏一党が楊氏一党を誅滅して横暴をきわめることになった。賈后および賈氏一党の横暴が八王の乱を誘発する原因になり,それがやがて異民族の華北席巻を許し,西晋王朝の滅亡と漢文明の危機を招来する結果となったのである。【川勝 義雄】 外戚はまた,ある人物からみて母方および妻方の親族を意味する。…
※「八王の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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