百科事典マイペディア 「観音寺城」の意味・わかりやすい解説
観音寺城【かんのんじじょう】
→関連項目六角征伐
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近江国の戦国大名佐々木六角氏の居城。滋賀県近江八幡市の旧安土町の繖(きぬがさ)山一帯に跡が残る。初見は1335年(建武2)で,足利尊氏に従う六角氏頼が立てこもったが,当時はまだ臨時のとりでであったと思われる。応仁の乱で佐々木の京極・六角両家が争った際,六角高頼が立てこもって何度も激しい合戦が演じられた。元来佐々木氏の本拠は八日市市の小脇にあったが,このころから観音寺城が六角氏の本城となり,順次城郭と城下町の整備が進んだ。1533年(天文2)に城下石寺の釘抜(木戸)を作るために付近の村から用材を徴発したのをはじめ,16世紀の中ごろ,六角定頼から六角義賢の代にかけて大規模な改修工事をくり返したことを示す史料が残る。1539年相国寺の僧が訪れ,城内の2階建ての屋形で宴が設けられたという記録などから,このころには恒久的な居城の体裁ができ上がっていたことがわかる。義治の代になって六角氏権力の矛盾が増大し,1563年(永禄6)に観音寺騒動といわれる内紛が起こり,山上山下が焼失した。その後,城郭は再建されたが,68年,織田信長の進攻にあって戦わずして落城した。
今日見られる遺構は,山城部分は山上から山腹にかけて東西約800m,南北約600mの広域に郭が密集し,山麓部分は石寺地区に東西約1km,宮津地区に南北250m以上に屋敷跡が連続する。郭のほとんどが石垣で築かれ,中世城郭としては異例である。とくに山上西尾根の本丸以下の本城地区は豪壮な石積みの虎口(城門),石段,暗渠等の施設が完備している。山腹の諸郭は整然と碁盤目状に区画された区域が目だち,山麓に発達する屋敷群が急峻な山地形にまで拡大し,山上山下全体が城郭構えになった過程を物語る。城下町の石寺は中山道を取り込んで拡張し,その石寺新市に1549年(天文18)楽市の制がしかれたことは全国の楽市のさきがけとして注目される。
執筆者:村田 修三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
室町期~戦国期の山城(やまじろ)。滋賀県近江八幡(おうみはちまん)市安土町石寺(あづちちょういしでら)にあり、標高433メートルの繖(きぬがさ)山一帯が城址(じょうし)である。近江南部の守護、守護大名そして戦国大名へと成長発展を遂げた佐々木六角(ろっかく)氏の本城で、古く南北朝期にも利用していたというが明らかではない。六角高頼(たかより)が応仁(おうにん)の乱(1467~77)のころ用いていたことが確実である。戦国期、六角定頼(さだより)、その子義賢(よしかた)(法名承禎(しょうてい))、さらにその子義治(よしはる)(義弼(よしすけ))の3代が全盛時代。鉄砲が伝来した義賢のとき、石垣を築いている。1568年(永禄11)織田信長に攻められて落城した。全山に無数の曲輪(くるわ)があり、まだその総数は正確に数えられていないが数百に及ぶ。また1969年(昭和44)から発掘調査が行われ、石段、井戸、庭園のほか排水のための暗渠(あんきょ)なども出てきた。石垣は安土城と同じ穴太(あのう)流の積み方である。
[小和田哲男]
滋賀県近江八幡市安土町にあった中世の山城。近江国守護佐々木(六角)氏の居城。応仁・文明の乱の際,六角氏はしばしば観音寺城に籠城し,1487年(長享元)と91年(延徳3)には室町幕府の討伐をうけ落城。発掘の結果,永禄期(1558~70)に大規模な整備が行われ,最も早い時期の総石垣の城と判明。しかし屋敷の集合体にとどまり,求心的な構成を造りだせなかった。1568年(永禄11)上洛をめざす織田信長に攻められ落城し,廃城。城跡(近江八幡市・東近江市)は国史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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