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観音寺城 かんのんじじょう

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日本の城がわかる事典の解説

かんのんじじょう【観音寺城〈山形県〉】

山形県酒田市(旧飽海(あくみ)郡八幡町)にあった平山城(ひらやまじろ)。古代の清原氏の一族の来次時衡を祖とした来次(きすぎ)氏の居城。当時の庄内地方は武藤(大宝寺)義氏の勢力下にあったが、来次氏は武藤氏に臣従していた。出羽山地西端の中腹、荒瀬川の河岸段丘上(標高60m)につくられていた城で、東西103m、南北81mの規模の城郭である。城内からは庄内平野庄内砂丘日本海が眺望できた。戦国時代の初め、来次氏第20代の氏房が観音寺城西麓の平地に館を築いたのが始まりである。氏房の子時秀は、父の建てた旧館が防衛上不利であること、また、近くを流れる日向川の洪水と浸食に悩まされていたことから、山腹に城を築いたといわれる。1582年(天正10)、庄内への進出を企図した山形城(山形市)の最上義光武藤義氏と対立。義光は時秀の子、氏秀を自陣営に引き入れようと画策をしたが、氏秀はその態度を決めかねていた。翌年、最上氏に通じた義氏の重臣の前森蔵人が義氏を殺害、弟の武藤義興が武藤氏の家督を相続したが、1587年(天正15)、最上勢の攻撃により、自刃し尾浦城(鶴岡市)は落城した。1588年(天正16)、上杉景勝の支援を受けた本庄繁長が庄内に攻め入り、最上氏が占領していた尾浦城を攻略し、庄内は上杉氏の領地となった。このとき、氏秀も本庄氏を通じて上杉氏の家臣となり、引き続き観音寺城を預かることになった。1600年(慶長5)、関ヶ原の戦いで、東軍側の最上義光は庄内に侵攻したが、義光は観音寺城に降伏を勧告。氏秀はこれを受け入れて城を明け渡し、会津の上杉氏のもとに去った。その時、家臣は帰農したといわれる。現在、城跡には空堀の跡が残っている。JR羽越本線南鳥海駅から車。◇来次城とも呼ばれる

かんのんじじょう【観音寺城〈滋賀県〉】

滋賀県近江八幡市(旧蒲生郡安土町)にあった山城(やまじろ)。国指定史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。月山富田城(島根県安来市)、七尾城(石川県七尾市)、春日山城(新潟県上越市)、八王子城(東京都八王子市)とともに、日本五大山岳城の一つに数えられている。繖(きぬがさ)山(標高432.9m)の山上に築かれていた城で、安土城以前の中世城郭としては珍しい総石垣の城である。古くは宇多源氏佐々木氏が本城としていた城で、佐々木氏が六角・京極・朽木の3流に分かれた後は、嫡流の六角氏が居城としていた城である。築城年代は明らかではないが、『太平記』によれば、南北朝時代初めの1335年(建武2)に、六角氏頼が北畠顕家の進攻を防ぐために、天台宗の寺院観音正寺を城塞化して立てこもったのが始まりとされている。本格的に城郭として整備されたのは応仁の乱(1466~77年)前後で、当時の城主の六角高頼は応仁の乱で西軍に与したため、同じ佐々木流で東軍に属した京極氏と敵対し、しばしば観音寺城に籠城して東軍の攻勢をしのいだ。その後、1556年(弘治2)には、城主の六角義賢が郭に石垣をめぐらすなどして城の守りを増強した。1568年(永禄11)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を開始したが、このとき、観音寺城の六角義賢(承禎)・義弼父子は観音寺城に籠城して敵対した。織田勢は観音寺城を含む六角方の城を攻撃。その一つの箕作山城(東近江市)が落城すると、六角父子は観音寺城を捨てて三雲城に退いたため、観音寺城は織田軍に占領された。その後、同城は廃城となった。現在、城跡には曲輪(くるわ)、石垣、虎口、井戸、水路などの遺構が残っている。JR琵琶湖線安土駅から徒歩1時間10分~20分、またはタクシー。同駅前からレンタサイクルも利用できる。

出典|講談社
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百科事典マイペディアの解説

観音寺城【かんのんじじょう】

滋賀県安土(あづち)町(現・近江八幡市)と五個荘(ごかしょう)町・能登川(のとがわ)町(現・東近江市)の境にそびえる繖(きぬがさ)山の山上から南斜面にかけて築かれた近江守護六角氏の居城。
→関連項目六角征伐

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世界大百科事典 第2版の解説

かんのんじじょう【観音寺城】

近江国の戦国大名佐々木六角氏の居城。滋賀県蒲生郡安土町の繖(きぬがさ)山一帯に跡が残る。初見は1335年(建武2)で,足利尊氏に従う六角氏頼が立てこもったが,当時はまだ臨時のとりでであったと思われる。応仁の乱佐々木の京極・六角両家が争った際,六角高頼が立てこもって何度も激しい合戦が演じられた。元来佐々木氏の本拠は八日市市の小脇にあったが,このころから観音寺城が六角氏の本城となり,順次城郭と城下町の整備が進んだ。

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大辞林 第三版の解説

かんのんじじょう【観音寺城】

滋賀県近江八幡市安土町の繖きぬがさ山(観音寺山)にあった城。南北朝頃より近江半国守護、佐々木六角氏の本城となり、1568年織田信長に攻められてのち廃城。石垣を積んだ山城としては日本一の規模。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

観音寺城
かんのんじじょう

室町期~戦国期の山城(やまじろ)。滋賀県近江八幡(おうみはちまん)市安土町石寺(あづちちょういしでら)にあり、標高433メートルの繖(きぬがさ)山一帯が城址(じょうし)である。近江南部の守護、守護大名そして戦国大名へと成長発展を遂げた佐々木六角(ろっかく)氏の本城で、古く南北朝期にも利用していたというが明らかではない。六角高頼(たかより)が応仁(おうにん)の乱(1467~77)のころ用いていたことが確実である。戦国期、六角定頼(さだより)、その子義賢(よしかた)(法名承禎(しょうてい))、さらにその子義治(よしはる)(義弼(よしすけ))の3代が全盛時代。鉄砲が伝来した義賢のとき、石垣を築いている。1568年(永禄11)織田信長に攻められて落城した。全山に無数の曲輪(くるわ)があり、まだその総数は正確に数えられていないが数百に及ぶ。また1969年(昭和44)から発掘調査が行われ、石段、井戸、庭園のほか排水のための暗渠(あんきょ)なども出てきた。石垣は安土城と同じ穴太(あのう)流の積み方である。[小和田哲男]

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