観音寺城【かんのんじじょう】
滋賀県安土(あづち)町(現・近江八幡市)と五個荘(ごかしょう)町・能登川(のとがわ)町(現・東近江市)の境にそびえる繖(きぬがさ)山の山上から南斜面にかけて築かれた近江守護六角氏の居城。南麓を中世の東海道が通っていた。国指定史跡。《太平記》には1336年に六角氏頼が立てこもる〈観音寺ノ城郭〉を大館(おおだち)幸氏が攻撃したとの記述があるが,六角氏の主城となったのは応仁―文明期(1467年―1487年)以降と推定される。応仁・文明の乱では城主六角高頼は西軍方につき,東軍方の京極(きょうごく)持清・勝秀父子や六角政尭と攻防を繰り返した。16世紀に入ると,城の南麓石寺(いしでら)(現近江八幡市)には家臣団や職人が集住し,城下町が形成された。1549年六角氏は枝(えだ)村(現滋賀県豊郷町)の商人が〈石寺新市〉において保内(ほない)商人と並んで紙の売買を行うことを保証しているが,このときの奉行人連署奉書(案文)は〈楽市〉の文言がみえる初めての史料とされる。1568年織田信長の攻撃を受けた六角承禎・義弼父子は甲賀に逃走,当城は落城した。〔遺構〕中世の城郭としては例のない総石垣造の山城で,山腹斜面に設置される郭群には伊庭(いば)・蒲生(がもう)・目賀田(めかた)など六角氏重臣の名が冠されており,家臣団の屋敷地であったと考えられる。1967年―1970年の発掘調査では土師器の皿類ほか輸入・国産の陶磁器などが出土し,福井市一乗谷(いちじょうだに)の越前朝倉氏館跡出土品の構成内容と酷似していた。なお現在,繖山の山上には西国三十三所観音霊場の32番札所観音正寺が建つ。→六角義賢/安土城
→関連項目六角征伐
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観音寺城 (かんのんじじょう)
近江国の戦国大名佐々木六角氏の居城。滋賀県近江八幡市の旧安土町の繖(きぬがさ)山一帯に跡が残る。初見は1335年(建武2)で,足利尊氏に従う六角氏頼が立てこもったが,当時はまだ臨時のとりでであったと思われる。応仁の乱で佐々木の京極・六角両家が争った際,六角高頼が立てこもって何度も激しい合戦が演じられた。元来佐々木氏の本拠は八日市市の小脇にあったが,このころから観音寺城が六角氏の本城となり,順次城郭と城下町の整備が進んだ。1533年(天文2)に城下石寺の釘抜(木戸)を作るために付近の村から用材を徴発したのをはじめ,16世紀の中ごろ,六角定頼から六角義賢の代にかけて大規模な改修工事をくり返したことを示す史料が残る。1539年相国寺の僧が訪れ,城内の2階建ての屋形で宴が設けられたという記録などから,このころには恒久的な居城の体裁ができ上がっていたことがわかる。義治の代になって六角氏権力の矛盾が増大し,1563年(永禄6)に観音寺騒動といわれる内紛が起こり,山上山下が焼失した。その後,城郭は再建されたが,68年,織田信長の進攻にあって戦わずして落城した。
今日見られる遺構は,山城部分は山上から山腹にかけて東西約800m,南北約600mの広域に郭が密集し,山麓部分は石寺地区に東西約1km,宮津地区に南北250m以上に屋敷跡が連続する。郭のほとんどが石垣で築かれ,中世城郭としては異例である。とくに山上西尾根の本丸以下の本城地区は豪壮な石積みの虎口(城門),石段,暗渠等の施設が完備している。山腹の諸郭は整然と碁盤目状に区画された区域が目だち,山麓に発達する屋敷群が急峻な山地形にまで拡大し,山上山下全体が城郭構えになった過程を物語る。城下町の石寺は中山道を取り込んで拡張し,その石寺新市に1549年(天文18)楽市の制がしかれたことは全国の楽市のさきがけとして注目される。
執筆者:村田 修三
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かんのんじじょう【観音寺城〈滋賀県〉】
滋賀県近江八幡市(旧蒲生郡安土町)にあった山城(やまじろ)。国指定史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。月山富田城(島根県安来市)、七尾城(石川県七尾市)、春日山城(新潟県上越市)、八王子城(東京都八王子市)とともに、日本五大山岳城の一つに数えられている。繖(きぬがさ)山(標高432.9m)の山上に築かれていた城で、安土城以前の中世城郭としては珍しい総石垣の城である。古くは宇多源氏佐々木氏が本城としていた城で、佐々木氏が六角・京極・朽木の3流に分かれた後は、嫡流の六角氏が居城としていた城である。築城年代は明らかではないが、『太平記』によれば、南北朝時代初めの1335年(建武2)に、六角氏頼が北畠顕家の進攻を防ぐために、天台宗の寺院観音正寺を城塞化して立てこもったのが始まりとされている。本格的に城郭として整備されたのは応仁の乱(1466~77年)前後で、当時の城主の六角高頼は応仁の乱で西軍に与したため、同じ佐々木流で東軍に属した京極氏と敵対し、しばしば観音寺城に籠城して東軍の攻勢をしのいだ。その後、1556年(弘治2)には、城主の六角義賢が郭に石垣をめぐらすなどして城の守りを増強した。1568年(永禄11)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を開始したが、このとき、観音寺城の六角義賢(承禎)・義弼父子は観音寺城に籠城して敵対した。織田勢は観音寺城を含む六角方の城を攻撃。その一つの箕作山城(東近江市)が落城すると、六角父子は観音寺城を捨てて三雲城に退いたため、観音寺城は織田軍に占領された。その後、同城は廃城となった。現在、城跡には曲輪(くるわ)、石垣、虎口、井戸、水路などの遺構が残っている。JR琵琶湖線安土駅から徒歩1時間10分~20分、またはタクシー。同駅前からレンタサイクルも利用できる。
かんのんじじょう【観音寺城〈山形県〉】
山形県酒田市(旧飽海(あくみ)郡八幡町)にあった平山城(ひらやまじろ)。古代の清原氏の一族の来次時衡を祖とした来次(きすぎ)氏の居城。当時の庄内地方は武藤(大宝寺)義氏の勢力下にあったが、来次氏は武藤氏に臣従していた。出羽山地西端の中腹、荒瀬川の河岸段丘上(標高60m)につくられていた城で、東西103m、南北81mの規模の城郭である。城内からは庄内平野、庄内砂丘、日本海が眺望できた。戦国時代の初め、来次氏第20代の氏房が観音寺城西麓の平地に館を築いたのが始まりである。氏房の子時秀は、父の建てた旧館が防衛上不利であること、また、近くを流れる日向川の洪水と浸食に悩まされていたことから、山腹に城を築いたといわれる。1582年(天正10)、庄内への進出を企図した山形城(山形市)の最上義光は武藤義氏と対立。義光は時秀の子、氏秀を自陣営に引き入れようと画策をしたが、氏秀はその態度を決めかねていた。翌年、最上氏に通じた義氏の重臣の前森蔵人が義氏を殺害、弟の武藤義興が武藤氏の家督を相続したが、1587年(天正15)、最上勢の攻撃により、自刃し尾浦城(鶴岡市)は落城した。1588年(天正16)、上杉景勝の支援を受けた本庄繁長が庄内に攻め入り、最上氏が占領していた尾浦城を攻略し、庄内は上杉氏の領地となった。このとき、氏秀も本庄氏を通じて上杉氏の家臣となり、引き続き観音寺城を預かることになった。1600年(慶長5)、関ヶ原の戦いで、東軍側の最上義光は庄内に侵攻したが、義光は観音寺城に降伏を勧告。氏秀はこれを受け入れて城を明け渡し、会津の上杉氏のもとに去った。その時、家臣は帰農したといわれる。現在、城跡には空堀の跡が残っている。JR羽越本線南鳥海駅から車。◇来次城とも呼ばれる。
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観音寺城
かんのんじじょう
室町期~戦国期の山城(やまじろ)。滋賀県近江八幡(おうみはちまん)市安土町石寺(あづちちょういしでら)にあり、標高433メートルの繖(きぬがさ)山一帯が城址(じょうし)である。近江南部の守護、守護大名そして戦国大名へと成長発展を遂げた佐々木六角(ろっかく)氏の本城で、古く南北朝期にも利用していたというが明らかではない。六角高頼(たかより)が応仁(おうにん)の乱(1467~77)のころ用いていたことが確実である。戦国期、六角定頼(さだより)、その子義賢(よしかた)(法名承禎(しょうてい))、さらにその子義治(よしはる)(義弼(よしすけ))の3代が全盛時代。鉄砲が伝来した義賢のとき、石垣を築いている。1568年(永禄11)織田信長に攻められて落城した。全山に無数の曲輪(くるわ)があり、まだその総数は正確に数えられていないが数百に及ぶ。また1969年(昭和44)から発掘調査が行われ、石段、井戸、庭園のほか排水のための暗渠(あんきょ)なども出てきた。石垣は安土城と同じ穴太(あのう)流の積み方である。
[小和田哲男]
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観音寺城
かんのんじじょう
滋賀県近江八幡市安土町にあった中世の山城。近江国守護佐々木(六角)氏の居城。応仁・文明の乱の際,六角氏はしばしば観音寺城に籠城し,1487年(長享元)と91年(延徳3)には室町幕府の討伐をうけ落城。発掘の結果,永禄期(1558~70)に大規模な整備が行われ,最も早い時期の総石垣の城と判明。しかし屋敷の集合体にとどまり,求心的な構成を造りだせなかった。1568年(永禄11)上洛をめざす織田信長に攻められ落城し,廃城。城跡(近江八幡市・東近江市)は国史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報