日本歴史地名大系 「具志川グスク」の解説 具志川グスクぐしかわぐすく 沖縄県:久米島・渡名喜島・粟国島久米島町仲村渠村具志川グスク[現在地名]久米島町仲村渠仲村渠(なかんだかり)集落の北西、クメシ原(ばる)の標高約三〇メートルの海岸突端岩上に形成されたグスク。具志川城跡の名称で国指定史跡。南東側は斜面地、それ以外は断崖の要害である。「琉球国由来記」によると城地は築城以前は具志川(ぐしちやー)嶽と称された。マダフツ按司は当初青名崎に築城を始めたが、仲地(なかち)村の者が青名崎より具志川嶽の方が要害の地で城に適しているとの進言により当地に築城した。築城年は不詳。二代目マカネコヘ按司の時に嘉手苅(かでいかる)に興った伊敷索按司一族の次男マニヨク樽按司に攻め滅ぼされた。マニヨク樽按司は当グスクに居城し治世していたが、首里王府尚真王によって攻められ、乳父世那節大比屋の裏切により正徳元年(一五〇六)落城させられ滅んだという。「球陽」は尚真王三〇年(一五〇六)条にマダフツ按司築城から落城までを記すが、久米島は洪武年間(一三六八―九八)より首里王府領であって、尚真王はマニヨク樽按司の謀反、あるいは暴政を征伐したものであろうと推測している。 具志川グスクぐしかわぐすく 沖縄県:沖縄島中部具志川市具志川村具志川グスク[現在地名]具志川市具志川 下敷原具志川(ぐしかわ)小学校の南方、金武(きん)湾に面し海に突き出すような琉球石灰岩の独立丘陵上、標高約二九メートルに位置する。伝承では一五世紀の初め頃、安慶名(あぎなー)の大川按司の三男が天願按司として天願(てんがん)グスクとともに具志川グスクに拠ったとされている。また当グスクの北側には俗にブラマ港とよばれる港があり、安慶名グスクの支城として貿易を管理していたといわれるが、尚真王代に安慶名グスクとともに廃されたという。 具志川グスクぐしかわぐすく 沖縄県:沖縄島南部糸満市喜屋武村具志川グスク[現在地名]糸満市喜屋武沖縄島最南端にあるグスクで、面積は約一四〇〇平方メートル。喜屋武(きやん)集落の南方、具志川原(ぐしかわばる)に位置し、三方を海に囲まれた標高一七メートル前後の琉球石灰岩断崖上に形成される。グスクは城門を入った二の郭と、一段下がった一の郭からなり、一の郭と二の郭とは長さ一二メートルの低い石垣で仕切られる。二の郭の中央には海へ通じる自然の竪穴があり、火吹き穴(ヒーフチミー)とよばれる。機能として非常時の抜け穴や落し穴、水の補給口などの諸説があるが定かではない。石垣は野面積みが基本であるが、城門両側だけは切石積みとなる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by