宗教家。大本(おおもと)教聖師。前名上田喜三郎(うえだきさぶろう)。京都府南桑田(みなみくわだ)郡穴太(あなお)村(現、亀岡(かめおか)市)の貧農に生まれる。1898年(明治31)争い事で負傷したのを機に近郊の霊山高熊山に籠(こも)って修行したのち、霊力による病気治しを始め、静岡県清水(しみず)の稲荷(いなり)講社で霊学と行法を学んで、村に皇道霊学(こうどうれいがく)会をつくった。1900年(明治33)京都府綾部(あやべ)に移り、大本教の出口ナオの五女すみ(1883―1952)と結婚して出口家に入ったが、ナオはじめ従来の幹部と衝突し、京都で神職、御嶽(おんたけ)教役員などを務めた。1908年、衰えていた大本教の教勢を再建するため綾部に戻って大日本修斎会をつくり、1916年(大正5)皇道大本と改称し、第一次世界大戦中から戦後に全国的に教勢を伸ばした。1921年、不敬罪・新聞紙法違反で第一次弾圧を受けて検挙されたが、これを機に教典『霊界物語』の述作を開始し、霊主体従、万教同根を説いて、ナオの復古的・農本的な世の立て替え立て直しの教義を観念化した。1924年保釈中ひそかに内モンゴルに赴き、翌1925年、平和と国際親善を唱えて人類愛善会を設立した。昭和初期、恐慌からファシズム台頭の時期に農村の救済と政治革新を主張し、1934年(昭和9)昭和神聖会を結成して政治運動に乗り出した。翌1935年、不敬罪・治安維持法違反で第二次弾圧を受け、6年余の獄中生活を送った。第二次世界大戦後、1946年(昭和21)愛善苑(えん)として教団を再建し苑主となった。桁(けた)はずれの言動で逸話に富み、和歌・書画・陶芸などの多くの作品を残した。著作は『出口王仁三郎著作集』に収められている。
[村上重良 2018年6月19日]
『『出口王仁三郎著作集』全5巻(1972~1973・読売新聞社)』▽『村上重良著『評伝 出口王仁三郎』(1978・三省堂)』
宗教家。大本教を発展に導いた教義の体系者であり教団の組織者。京都府亀岡市穴太の小作農の長男に生まれた。旧名上田喜三郎。12歳で村の小学校の代用教員をつとめ,小作仕事,牧夫,車引き,牛乳販売などを経験。1898年けんかで負傷したことがきっかけで,村はずれの山にこもり,修行の体験をした。神秘体験を重ねて病気治しの布教活動をはじめ,稲荷講社で霊学や神がかりの行法を学んだ。同年出口なおと出会い,翌99年なおを教主とする大本教へ入り,宗教組織金明霊学会をつくり,会長となった。1900年王仁三郎は〈世継〉と定められ,なおの五女すみと結婚。彼は教祖なおの〈筆先〉と自分の宗教体験と知識をもとに大本教の教義を体系化することに取り組むが,なおの側近と対立して,06年一時教団を離れた。京都の皇典講究分所,建勲神社,さらに御岳教西部教庁などで学び,08年暮に綾部の大本教にもどると,教祖なおの日露戦争に敗けるという予言が大きくはずれたことが原因で,多くの信者が去り教勢は衰退していた。なおと王仁三郎の二人三脚の教団運営がはじまる。同年金明霊学会を大日本修斎会と改称,翌09年には機関誌《直霊軍》を発刊,17年には《神霊界》を発行した。1909年には神殿の建設がはじまった。18年11月,教祖なおは83歳で世を去ったが,大本教は20年には日刊新聞を発刊し,マスコミの力を使って全国的な発展をとげた。しかしこの急速な発展に対し,弾圧が行われ(第1次弾圧),王仁三郎は検挙され,神殿,なおの墓などが破壊された。同年《霊界物語》の口述を開始,25年には世界宗教連合会や人類愛善会を設立するなど海外にも進出した。35年王仁三郎は再び検挙され(第2次弾圧),37年には治安維持法違反と不敬罪のため無期懲役を宣告され,教団は大打撃をうけた。しかし第2次大戦の敗戦直後の45年9月に無罪となり,政府に没収されていた綾部,亀岡の二つの聖地も返還された。46年大本教を愛善苑の名で再建した。10万首近い和歌をよみ,大本教理関連の著述が多い。
→大本教
執筆者:小栗 純子
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(川村邦光)
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明治〜昭和期の宗教家 大本教聖師。
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…そのうえ神の言葉を理論化する能力をもつ王仁三郎はなおの信頼を得,1900年にはなおの後継者五女すみと結婚。これ以後大本教は出口王仁三郎によって教義の体系化,組織化が進められ,聖師とよばれた彼の指導力が発揮されることになる。王仁三郎は戦争によってさらに富を増大していく資本家・地主といった人々に激しい憤りを燃やし,日本人の大多数を占める庶民を不幸に追いやる戦争を強く否定しつづけた。…
※「出口王仁三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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