出島(長崎)(読み)でじま

日本大百科全書(ニッポニカ) 「出島(長崎)」の意味・わかりやすい解説

出島(長崎)
でじま

江戸時代、鎖国期間中に長崎に来航するオランダ人の居住地にあてられ、オランダ東インド会社の日本商館が置かれていた扇形の築島(長崎市出島町)。オランダ人の記録によると、当初は出島とはよばず、単にツキシマ(築島)とよばれていたらしい。オランダ語でも「島」eylandと記されている。

 1634年(寛永11)、江戸幕府はキリシタン禁教政策の一環として、長崎に来航するポルトガル人を日本人から隔離し収容するため、25人の長崎商人に命じて、長崎港内の一隅を埋め立てて海岸から突出する扇形の築島を築かせた(1636年に完成)。しかし、天草島原の乱ののち幕府は1639年にポルトガル人の来航を禁止したため、ここは空き家同然となったが、1641年にはオランダ船貿易を長崎奉行(ぶぎょう)の監督下に置くため、平戸(ひらど)にあったオランダ商館をここに移転させた。以来1855年(安政2)の日蘭(にちらん)仮条約締結まで、オランダ人の在留はこの島のみに限定され、商館長の江戸参府や長崎諏訪(すわ)大社祭礼(おくんち)などの行事を除いて、オランダ人が出島から出ることは原則として禁止されていた。

 出島の面積は約1万3117平方メートルで、扇形をなし、周囲は高い板塀で囲まれ、江戸町に面した北辺の中央部に橋があって長崎市内と結ぶ唯一の出入口となっていた。ここには番所が置かれ、遊女と高野聖(こうやひじり)を除く一般の日本人の出入りを禁ずる旨の高札が立てられていた。島の西辺には船荷の積み下ろしをする河岸(かし)と水門が設けられていた。出島の内部は東西と南北に走る2本の道で四分され、各区画内には商館長の住居(甲比丹(カピタン)部屋)をはじめ、商館員の居住する家屋船員の宿泊施設、倉庫、通詞(つうじ)会所や日本人役人の詰所花壇や菜園があり、入口付近の北西の区画内にはオランダ国旗を掲揚する檣(ほばしら)が立てられていた。

 出島は鎖国期間中、数度火災にあい、再建されたが、幕末期には住宅・倉庫など65棟を数えた。オランダ人は、前記の出島を建設した長崎町人25氏に賃貸料として年間銀55貫匁を支払った。

 出島は開国後オランダ人居留地となり、明治初年に埋め立てられて今日では市街地の一部となり、出島町という町名にその名をとどめるのみとなった。島の結構も、かつての江戸町とこれに接する島の北岸の間を流れる水路の湾曲部分と石垣にわずかにそのおもかげをとどめるにすぎない。現在、「出島和蘭(オランダ)商館跡」は国の史跡に指定され、近年、開国後に出島に建てられた聖公会の教会が復原されて出島資料館の一部となっている。

[加藤榮一]

『『長崎市史 地誌編・名勝旧蹟部』(1937・長崎市)』

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