寛永一一年(一六三四)の出島造成により町並の整備が進み、コンプラドール仲間や阿蘭陀通詞会所、阿蘭陀通詞の楢林家など貿易関連の屋敷や施設が多かった。
川越城西大手前正面から南へ延びる川越街道の両側町。町人町で、城下一〇ヵ町のうち上五ヵ町の一。町名は江戸との往還(川越街道。江戸道ともいう)に位置することに由来。一七世紀後半頃の川越城図に江戸町とみえ、江戸道の両側が町屋である。東は城の堀と
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
敵を欺くために、自分の身や味方を苦しめてまで行うはかりごと。また、苦しまぎれに考え出した手立て。苦肉の謀はかりごと。「苦肉の策を講じる」...