初倉荘(読み)はつくらのしょう

改訂新版 世界大百科事典 「初倉荘」の意味・わかりやすい解説

初倉荘 (はつくらのしょう)

平安末期に成立した遠江国榛原(はいばら)郡の荘園(現在の静岡県焼津市南部,榛原郡吉田町,牧之原市北部)。美福門院得子を本家として成立した皇室領荘園で,その年貢の一部が宝荘厳院と高野山の大伝法院に進納された。美福門院が亡くなると,娘の八条院暲子に伝領され,大覚寺統の最重要所領たる八条院領の一つとなった。1299年(正安1)亀山上皇によって南禅寺に寄進され,以後南禅寺領として戦国時代に至る。南禅寺の初倉荘支配は主として守護被官による代官請であり,国人領主層の蚕食が繰り返されて,その支配は不安定であった。そこで南禅寺は1443年(嘉吉3)に検地を行い支配の再編強化を企てるが,直後の45年(文安2)には名主百姓らの年貢減免闘争に直面するなど,同荘支配の維持は容易ではなかった。やがて15世紀後半以降,駿河守護今川氏の遠州侵入が繰り返されるようになり,両国国境付近にある同荘もその影響をまともに受けた。そして遠江守護斯波氏,守護代甲斐氏の領国支配の崩壊とともに南禅寺の初倉荘支配も終焉し,1501年(文亀1)の寺領目録では〈不知行〉の地となっている。

 初倉荘は大井川の東西に広がる大規模荘園であり,そのうち大井川以東の江富,吉永,鮎河,藤守の4郷と上泉,川尻の2村が南禅寺領である。同荘は大井川の扇状地性沖積平野の扇端部に位置し,洪水や塩入(海水の逆流による塩害)の被害を受けやすい地であった。しかし中世成立期には,藤守郷に郷内を塩入の害から守る輪中型の塩堤が築かれたと推定される。また江富郷などの郷では,堂島,祖母島,小松島などと呼ばれる微高地(島)に,〈祖母島上堤添〉などと検地目録に記されているような堤を築いて,活発な開発が展開された。その結果,南北朝期には江富郷から上泉村,鮎河郷から川尻村が分出している。初倉荘は中世における大河川下流域平野の開発の具体相を知りうる貴重な事例の一つである。
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百科事典マイペディア 「初倉荘」の意味・わかりやすい解説

初倉荘【はつくらのしょう】

駿河国との国境にある遠江国榛原(はいばら)郡の荘園。現静岡県島田市から吉田町・大井川町(現・焼津市)にかけた大井川下流左岸にあった。初め皇室領。1299年亀山上皇から京都南禅寺に寄進され,以後戦国時代まで南禅寺領。14世紀後半ころまでに輪中(わじゅう)型の塩堤の築調などによって開発が進展し,新村落も形成されたが,南禅寺の荘経営は守護被官による代官請のため不安定であった。15世紀後半以降は駿河守護今川氏の侵入が繰り返され,年貢減免闘争も活発化し,遠江守護斯波(しば)氏没落とともに南禅寺の支配は及ばなくなった。

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