百科事典マイペディア 「加藤勘十」の意味・わかりやすい解説
加藤勘十【かとうかんじゅう】
→関連項目日本無産党
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労働運動家、政治家。愛知県生まれ。日本大学法科中退。1920年(大正9)八幡(やはた)製鉄争議を指導。その後、日本鉱夫組合委員長となり、各地の炭鉱ストの陣頭にたつ。1935年(昭和10)全国評議会委員長。1936年総選挙では反ファッショを掲げ、全国最高点で当選。1937年日本無産党委員長となるが、人民戦線事件で検挙される。敗戦後、社会党結成に参加、党内左派を代表し統一戦線の結成を主張。1948年(昭和23)芦田均(あしだひとし)内閣に労相として入閣。1951年の社会党分裂では右派社会党に参加。1969年代議士を引退し社会党顧問となる。「カトカン」の愛称で親しまれ、夫人シヅエとともに「おしどり代議士」として有名だった。
[小田部雄次]
『加藤シヅエ著・船橋邦子編『最愛のひと勘十へ――加藤シヅエ日記』(1988・新曜社)』
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
大正・昭和期の政治家,労働運動家 衆院議員(社会党);労相。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
社会運動家。愛知県生れ。日大の夜学で学び,1918年シベリア出兵に従軍し,反戦思想を抱く。20年旧友浅原健三の検挙後,八幡製鉄争議に参加し,騒擾罪(そうじようざい)で起訴される。その後,全日本鉱夫組合委員長として別子,尾去沢などの鉱山ストを指導。総同盟では左派の立場を堅持し,右派の松岡駒吉らと対立。34年戦前最後の合法左翼組合,日本労働組合全国評議会(評議会)を結成。36年総選挙で反戦・反ファシズムを掲げて当選するが,37年人民戦線事件で検挙。44年石本静枝と再婚。戦後は日本社会党左派の領袖として48年芦田均内閣の労相をつとめた。その後69年の引退までに党内で要職を歴任した。のち社会党顧問。
執筆者:塩田 咲子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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1892.2.25~1978.9.27
大正・昭和期の労働運動家・政治家。愛知県出身。日本大学(夜学)中退。1918年(大正7)以降労働運動とくに鉱山労働運動の指導者となる。26年(昭和元)日本労農党結成に参加,満州事変後は左派に転じ,34年日本労働組合全国評議会委員長に就任。36・37年の総選挙で当選したが,人民戦線事件で検挙。第2次大戦後,社会党結成に左派として参加,衆議院議員となり,右派に転じて芦田内閣の労相に就任。妻は加藤シヅエ。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…この年は第1次世界大戦後の異常な物価騰貴が続く中で労働組合運動が初めて本格的な高揚を見せたが,新聞界でも6月17日東京の日刊新聞16社の印刷工で組織した史上初の新聞労働組合〈新聞印刷工組合革進会〉が誕生。会長横山勝太郎(憲政会代議士),顧問加藤勘十。7月下旬革進会加盟の《東京日日新聞》印刷工が最低賃金大幅引上げ,8時間労働2部制などを会社側に要求したのをきっかけに,《万朝報》《読売新聞》《時事新報》など各社印刷工も相次いで同様の要求を提出。…
…日本労働組合全国評議会の略称。1934年11月18日,満州事変後の労働戦線の右翼的再編に対抗し,合法左翼組合の全労統一全国会議(加藤勘十,高野実ほか)と日本労働組合総評議会(総評。山花秀雄,田部井健次ほか)とが合同し,樺太から九州に至る12団体58組合6603人の参加によって結成された(委員長・加藤,書記長・田部井)。…
※「加藤勘十」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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