日本の民法は,不法行為責任の成立について,〈故意又ハ過失ニ因リテ他人ノ権利ヲ侵害シタル者ハ之ニ因リテ生シタル損害ヲ賠償スル責ニ任ス〉と規定している(709条)。そこで,民法の不法行為責任の成立要件は,原則として,故意・過失,責任能力,違法性,および因果関係ということになるわけであるが,このように故意・過失を不法行為責任の成立要件とするものを過失責任と呼び(過失責任主義),これに対して,故意・過失を成立要件としないものを無過失責任と呼んでいる。そして,過失責任や無過失責任の用語は,広義では,債務不履行責任についても使用されている。
不法行為責任については,行為と損害との間に因果関係が認められさえすればそれで賠償責任を負わせるという,いわゆる原因主義ないし結果責任主義の時代が先行した。そして,このような責任主義がだんだん克服され発展して,とくに近代法に至って,故意・過失を要件とする過失責任主義が広く台頭し確立したといわれる。1804年公布のフランス民法典(1382条)や1900年公布のドイツ民法典(824条)がその代表であり,日本の民法は,これらの諸法を継受したものである。
近代民法がおしなべてこのような過失責任主義を採用した根拠について,たとえば,日本民法修正案理由書は,〈原因主義ガ厳ニ失シテ各人活動ノ妨害ヲ為シ実際ノ生活ニ適セザルコトハ多数ノ立法例ニ於テ確認スル所〉と説明している。すなわち,近代法は,個人の自由活動を最高の理想とし,したがって,故意・過失のない場合にも賠償責任を認めることは個人の自由活動を阻害すると考えたためである。〈契約自由の原則〉が,個人の自由活動の積極的保障のための法技術とすれば,過失責任の原則は,それを裏面から支える消極的保障のための法技術といってもよいであろう。そして,主として個人の通常の日常生活行為からの損害を中心とする近代社会初期の損害態様にあっては,過失責任の原則は,発生した損害の塡補(てんぽ)という観点においても合理性を維持するものであった。すなわち,個人の通常の日常生活行為から発生する損害にあっては,その損害の大部分が,よく注意すれば損害の発生を予見し結果の発生を回避できるものであり,したがって,不注意で予見せず結果の発生を回避できなかった場合に成立することとなる過失責任は,そのかぎりでは,よって生じた損害の塡補に十分機能しうる法技術といってよいからである。その意味では,近代法における過失責任の原則は,個人の自由活動の保障と被害者の損害塡補とを両立させ調和させる法技術であったともいいうるわけである。
以上のような合理性をもった法技術としての近代法上の過失責任の原則も,近代社会の発展に伴い,鉱工業,高速度交通機関,そのほか各種の企業活動が活発になるにつれて,やがて不合理な面を示すようになる。すなわち,これらの各種企業は,一方では多くの便益を与えるものであるが,他方では,たとえば,今日,公害と呼ばれるような各種各様の企業災害をもたらすものでもある。そして,これらの企業災害はよく注意しても発生しがちな損害であり,また,その原因行為は,多くの人や機械などが有機的に結合した団体としての企業による行為であるという点に特徴がみられる。そこで,このような特徴をもった企業災害を,なお,過失責任で処理しようとすると,その場合の過失責任は,結果として,被害者の損失において企業の利益をもたらす法技術ともなりかねないわけでもある。すなわち,企業災害に内在するこのような諸特徴は,過失理論上も,また訴訟における立証上も,過失の存在の認定をきわめて困難ならしめる要因にほかならないからである。
そこで,過失責任が各種近代的企業からの企業災害に直面した場合の不合理さは,やがて,損害原因者は,過失の有無にかかわらず当該損害について賠償すべきであるとの,いわゆる無過失責任の理論,そして,その制度化を促すこととなるのである。そして,このような理論や制度の根拠としては,危険物を支配し管理するものは責任を負うとの危険責任主義や,利益の帰するところに責任も帰すとの報償責任主義が提唱された。
日本でも無過失責任の理論が出現するのはすでに明治時代のことであるが,しかし,それがはじめて制度化されたのは,1939年,鉱害賠償に関してであった(旧鉱業法74条ノ2,現行鉱業法109条以下)。その後,無過失責任制度があらわれるのは第2次大戦後のことであり,現在では水洗炭被害に対する賠償制度(水洗炭業に関する法律16条),原子力被害に対する賠償制度(〈原子力損害の賠償に関する法律〉3条),大気汚染による健康被害に対する賠償制度(大気汚染防止法25条以下),水質汚濁による健康被害に対する賠償制度(水質汚濁防止法19条以下),労働災害に対する賠償制度(労働基準法75条以下),独禁法上の被害賠償制度(独占禁止法25条1項),油濁被害に対する賠償制度(油濁損害賠償保障法3条)などがみられる。
また,過失責任と無過失責任の中間的な,いわゆる中間的責任として,民法上の土地の工作物責任や竹木についての責任(717条),国家賠償法上の公の営造物責任(2条),自動車損害賠償保障法上の運行供用者責任(3条)などもみられる。
無過失責任の特徴は,まず責任の成立要件という観点において故意・過失の有無がなんら要件にならないということであるが,しかし,それのみにとどまるものではない。各制度でその内容・構成に多少の差異はあるものの,無過失責任の成立要件については,違法行為の定型化,因果関係の画一化,さらには責任帰属の画一化などが試みられており,その意味では,無過失責任は伝統的な過失責任の故意・過失という主観的成立要件の修正型にとどまらないで,さらに違法性,因果関係といった客観的成立要件の修正型ともみられる。
無過失責任の第2の特徴は,やはり各制度で差異はあるが,いわゆる責任の分散・担保にくふうが試みられていることである。すなわち,責任の成立要件にくふうを加えて,いくら責任の成立を容易にしても,その責任の実行が保障されなければあまり効果はないわけである。そこで,無過失責任の多くは,責任保険制度,基金制度,担保金制度などと結合されて,加害者の側からは責任の分散を,また,被害者の側からは責任の担保を図り,結果として無過失責任の実効性を確保しようとするわけである。
以上から,今日の不法行為法の傾向は,おぼろげながらも,個人の通常の日常生活行為からの損害に対しては過失責任が,また,危険物を利用して利益をあげているものの企業的活動行為からの損害に対しては無過失責任がよりよく妥当することを示しているともみられる。その意味では,危険物を利用して利益をあげている企業的活動行為からの損害について,なお,無過失責任制度の成立していない場合の処理が今後の課題ともいえる。そして,この点については,多くの判例は形式的には過失責任を維持しつつ,実質的には,その場合の過失をきわめて高度の注意義務としたり,あるいは過失の立証責任を転換するなどして,いわば過失の衣を着た無過失責任を認めるところとなっている。
執筆者:徳本 鎮
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ある者が他人に損害を生ぜしめた場合に、その者に過失がなくても民事責任(とくに不法行為責任)を負う場合に、これを無過失責任といい、過失責任に対置される。近代法は、資本主義的自由主義のたてまえから過失責任主義を原則とする。日本の民法第709条はその例であり、無過失責任の規定は例外的である(民法717条の所有者の責任など)。しかし、近代産業の発展は、多くの危険(高速度交通機関、電気事業、石油コンビナートなど)と、そのような危険をまき散らしながら膨大な利潤を得る企業を生み出し、過失責任主義の貫徹を不適当なものとした。なぜなら、危険をつくりだした者は、それから生じた損害について賠償責任を負うべきであるし(危険責任主義)、利益をあげる過程で他人に損害を与えたならば、その利益のなかから賠償させる(報償責任主義)のが公平にかなうからである。そこで、種々の特別法で無過失責任が取り入れられるに至っている。鉱業法(109条)、「原子力損害の賠償に関する法律」(3条)などはその例であり、公害についても無過失責任が導入された。
[淡路剛久]
鉱山経営から生じる鉱害の歴史は古く、1939年(昭和14)旧鉱業法に無過失責任の規定が取り入れられ、第二次世界大戦後の50年(昭和25)に制定された現行鉱業法に受け継がれた。同法によると、鉱物の掘採のための土地の掘削、坑水や廃水の放流、捨石(すていし)や鉱滓(こうさい)の堆積(たいせき)、または鉱煙の排出によって他人に損害を与えたときは、その鉱区の鉱業権者(租鉱区が設定されているときには租鉱権者)が過失がなくても損害賠償責任を負わなければならず、損害発生のときすでに鉱業権が消滅しているときには、鉱業権消滅のときの鉱業権者が責任を負う(109条1項)。損害が発生したあとに鉱業権が譲渡された(または租鉱権が設定された)場合には、損害が発生したときの鉱業権者およびその後の鉱業権者(または租鉱権者)が連帯して損害賠償責任を負う(同条3項)。これらの規定の適用例として、イタイイタイ病訴訟判決、土呂久(とろく)ヒ素公害訴訟判決などがある。
無過失責任は、1972年、大気汚染防止法および水質汚濁防止法の改正により、大気汚染公害および水質汚濁公害にも適用されることになった。すなわち、大気汚染防止法によると、工場または事業場における事業活動に伴う健康被害物質により人の生命または身体を害したときには、その事業者が無過失でも損害を賠償しなければならず(25条1項)、水質汚濁防止法では、工場または事業場における事業活動に伴う有害物質の汚水または廃液に含まれた状態での排出により人の生命・身体を害したときには、その事業者が無過失でも損害賠償責任を負うべきものとされている(19条1項)。なお、損害の発生に関して、天災その他の不可抗力が競合したときには、裁判所は損害賠償の責任および額を定めるにつき、これを斟酌(しんしゃく)できるものとされている(大気汚染防止法25条の3、水質汚濁防止法20条の2)。
[淡路剛久]
核燃料の利用(原子炉の運転等)により損害が生じたときに備えて、1961年、原子力事業者の無過失責任を定める「原子力損害の賠償に関する法律」が制定された。同法によると、原子炉の運転、加工、再処理および核燃料物質の使用により原子力損害を生じたときには、その原子炉の運転等にかかる原子力事業者が、過失の有無を問わずに損害賠償責任を負わなければならない(3条1項本文)。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変(たとえば異常に巨大な地震)または社会的動乱(たとえば戦争や内乱)によって生じたものであるときには、無過失責任は適用されない(同条但書)。
[淡路剛久]
独占禁止法は、公正かつ自由な競争を保障するため、私的独占、不当な取引制限および不公正な取引方法を禁止しているが、これらの禁止に違反して事業者が他の事業者や一般消費者に損害を与えた場合には、無過失でも損害賠償責任を負わなければならない(25条1項・2項)。なお、この損害賠償請求権は、公正取引委員会の審決が確定したあとでなければ、裁判上主張できないものとされている(26条)。
[淡路剛久]
損害賠償責任を定める法律の規定のなかには、過失の挙証責任を転換しているものがある(たとえば、民法714条・715条・717条・718条、自動車損害賠償保障法〈自賠法〉3条など)が、その場合に、免責の立証(過失がなかったことの立証など)がなかなか認められないと、事実上無過失責任に近くなる。
[淡路剛久]
無過失責任(absolute liability)は通常の国際責任の場合とは異なり、国際違法行為と故意・過失がなくても、国際法益の侵害の救済または危険の防止のために追及される国際法上の責任をいう。とくに最近の科学・技術の実用化に伴い高度の危険性を内蔵する特定の事業分野の事故に基づく第三者損害について、特別の条約により無過失・厳格責任を定め免責事由を限定するなど、危険責任主義を採用する。そのなかには、航空機落下や海洋汚染による損害など、事業の運用管理者の限定賠償責任とそれに見合う保険の設定義務を定め、管轄の国内裁判所を指定するもの(民事責任)、原子力事故損害など、民事責任のうち運用管理者の負担能力を超える分について、事業を許可した国の分担責任を定めるもの(混合責任)、宇宙物体の落下損害など、この活動を許可・監督する国に無過失・無限の賠償責任を集中するもの(国の専属責任)がある。しかし、無過失責任の適用が認められる分野は特定されており、国連国際法委員会も、このような「国際法上禁止されない行為により生じた侵害についての国際責任」を一般原則化する作業を進めているが、まだ合意に達していない。
[山本草二]
『石本雅男著『無過失損害賠償責任論』2冊(1983・法律文化社)』▽『岡松参太郎著『無過失損害賠償責任論』(1953・有斐閣)』▽『山本草二著『国際法における危険責任主義』(1982・東京大学出版会)』
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