十軒町(読み)じゆつけんまち

日本歴史地名大系 「十軒町」の解説

十軒町
じゆつけんまち

[現在地名]敦賀市結城ゆうき

あか川の南岸旧敦賀城内の北部に位置し、北は赤川を隔てて出村でむら町、南は敦賀役所。枝町に野瀬のぜ町・うら町がある。当町の成立期を、「指掌録」は小浜藩主酒井忠直の時代、明暦二年(一六五六)から天和二年(一六八二)の間、「敦賀雑記」は寛文年中(一六六一―七三)、「敦賀志」は万治年中(一六五八―六一)とする。町名は建始めの一〇軒より起ったという(敦賀志)ちや町繁盛の頃は娼家戯場などあったが、十軒町西端の真願しんがん寺東側にあった芝居小屋は丁持ちよもち町の枝町森屋敷もりやしきに、娼家は同三ツ屋みつや移転したと伝える(同書)。寛文三年の十軒町の家数は四〇、うち家持二二・貸屋一八、打它家所有の長屋三六(家持一・貸家三五)裏町は八四、うち家持五七・貸屋二七(寛文雑記)


十軒町
じつけんちよう

[現在地名]長浜市大宮町おおみやちよう

金屋かなや町の北に位置し、西と北はよね川に囲まれる。みや村領年貢地。元禄八年大洞弁天寄進帳では家数一〇(借家一)、男二五・女二四で、町代が置かれ、鍋屋松屋小間物屋・枡屋・仏師・東屋がいた。


十軒町
じつけんちよう

[現在地名]水戸市東台ひがしだい一―二丁目

東台の東裏にあり、東は赤沼あかぬま町・鍛冶かじ町、北は荒神あらがみ町・さんノ町。中世武熊たけくま村の内であった。「水府地名考」に「此町昔は諸士の宅地十軒ありし故の名なるべし」とある。


十軒町
じつけんちよう

[現在地名]中央区明石町あかしちよう

船松ふなまつ町二丁目の南に続く。東は大川(隅田川)河口に面し、西は武家地。寛文新板江戸絵図には「十間丁」と記される。材木問屋薪炭問屋が多く集まっていた(続江戸砂子)。安永三年小間附町鑑によると小間は京間一四五間二尺、名主は水田善三郎。沿革図書によれば延宝(一六七三―八一)から元禄(一六八八―一七〇四)頃まで南端西裏には堀に面して「半井ヤシキ」があり、文化五年(一八〇八)には同跡地中央部に勘定方島会所が置かれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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