改訂新版 世界大百科事典 「印刷工」の意味・わかりやすい解説
印刷工 (いんさつこう)
15世紀中葉のグーテンベルクによる活版印刷術の発明は,ヨーロッパにおける活字文化の開幕を告げるものであった。印刷工は,まさにこの近代を象徴する新しい文化の担い手として,歴史の舞台に登場する。書物の生産に大変革をもたらした新技術のうち,プレス機と紙はすでに知られていたから,革新のかなめは金属活字の鋳造であった。それゆえ,グーテンベルクその人をはじめとして,初期の印刷工には彫金師から転身した者が多く,火と金属を用いるところから,呪術師と目され異端視されたりもした。中世以来写本の作製にたずさわってきた写字生たちからは,いまわしき競争相手として白眼視されながらも,新技術を身につけた印刷工はヨーロッパ各地に広まり,1480年ごろまでにはその地歩を確立した。初期の印刷工に特徴的なことは,印刷と並んで出版や販売にたずさわっている例が多いことであり,また,自ら美しい活字を彫る工芸家であったり,ギリシア語やヘブライ語にも通じる人文学者であったりすることもまれではない。バーゼルのアーメルバハやパリのエティエンヌ父子は,学者としても名高く,彼らの工房はユマニストたちの集会場所となり,新しい知的サークルの拠点ともなった。
ルネサンスの革新の気運に満ちたこの時代にあって,諸国の君侯は,すぐれた印刷工房を擁することを誇りとし,租税免除や帯剣許可などの特権を与えて印刷工を保護した。しかし,新しい思想の担い手でもあった印刷工たちは,教会や世俗の権力と対立することが多く,とくに宗教改革の展開とともに,秘密出版に従事して厳しい迫害を受けた例も多い。マロやラブレーの出版を手がけ,異端のかどをもって絞首・焚刑に処されたエティエンヌ・ドレÉtienne Doletもその名高い一人である。17世紀末,ナントの王令の廃止に伴う絶対王政批判の高まりや,18世紀における啓蒙主義の展開は,印刷人と思想家を再び緊密に結びつけた。政治権力による統制に抗して秘密出版により新思想を支えた印刷工たちは,思想の自由の歴史において特記さるべき存在である。
手工業者としての印刷工は,他の職種と同様,親方・職人・徒弟の三つの階層に区分される。親方は,出版業者・書籍商と重なる面が多く,同一のギルドを結成していた。印刷機1台といった小規模の親方から,100人に及ぶ職人・徒弟を擁したアントワープのプランタン一族のような大企業主まで,その規模は多様である。職人は,親方とは別個のギルドを結成した。労働条件は決してよくはなかったから,リヨンやパリなど印刷業の中心地では,16世紀半ばより職人たちのストライキが頻発した。職人たちの多くも,ラテン語などが読める教養人であったから誇りが高く,作業がチーム・ワークであったから仲間意識は強烈であった。このような気風は,19世紀に入っても受け継がれ,労働運動の中でも印刷工の組合は独自の行動様式で知られている。
執筆者:二宮 宏之
日本
日本の活版印刷業は,1870年(明治3),本木昌造によって創業された長崎の新街(町)活版所がその起りである。71年に平野富二が経営のいっさいを引き受け,経営の刷新と工場の大改革を断行した。そのなかに〈大イニ分業ノ法ヲ設ケ〉たことがあげられているので,母型の製造,鋳造,文選,植字,印刷,解版などの作業分担,各係がきめられたものとみられる。当初の印刷機は手動運転で,1台の〈ロール〉に見習工が2~3人ついて〈はずみ車〉を回して運転した。日就社(読売新聞社の前身)が76年,秀英舎(大日本印刷の前身)が83年にそれぞれ蒸気機関を設置し,その動力によって初めて印刷機を稼働した。その後,秀英舎に電力が導入されたのは1917年のことである。
秀英舎は,1878年に舎則を定めると同時に年期習業生(全寮制)を募集し,印刷業に必要な学科と実技の伝習を行い,84年まで続けた。97年高野房太郎らによって労働組合期成会が組織され,その支援を受け99年11月に活版工組合(会長・島田三郎,組合員約2000名)が結成された。しかし,継続することができず翌年5月に解散した。そのなかで芝支部のみ誠友会として存続し,その後の運動に影響をおよぼした。戦後は,1946年に全日本印刷出版労働組合が組織されたが,内外の諸情勢に対応できずに分裂を重ね,現在は,全国印刷出版産業労働組合総連合会(略称,全印総連),印刷情報メディア産業労働組合連合会(略称,印刷労連)などがある。
執筆者:矢作 勝美
中国
中国で活字本とか,抄本つまり写本とかでなく,板に彫った〈版木(はんぎ)〉を用いて印刷した書物のことを刊本,版本,刻本,雕本などと呼び,またそのように彫る行為を版刻,雕版などという。そして版刻の職人を刻工と呼んだ。商業ベースに乗る大量出版が日常的に行われるようになる明の中葉,だいたい万暦年間(1573-1619)の中期よりも前の官私の出版,特に宋・元の版本では,しばしば刻工が自分の名を版木に彫り込んだ。最も多いのは版心,つまり版木の真ん中で,後代に一般化する装丁,つまり日本で和綴(わとじ)と呼ばれる形式ではちょうど折られて本をあけるとき指の当たる部分である。刻工は自分の名をその版心の下部の真ん中,折られると裏表に分かれるようにか,あるいは表か裏のどちらかになるように片寄せてか,刻した。同時に,そのとき自分の彫った字数を版心の上部に彫り込むこともあった。彫り手の責任を明らかにするとともに,また大何字,小何字というように彫り込むことで手間賃の計算を便利にするためであったと思われる。
版木が繰り返し使われて磨滅がひどく,部分的な補修では間に合わなくなったとき,特に損傷のひどいものから版ごと彫りなおすということがあった。すなわち〈補刻〉であるが,このとき補刻に当たった職人がまた〈壬子重刊夏応〉〈戊申重刊劉彦中〉などと名を刻することがあった。刻工の名は姓だけのこともあり,名だけのこともあり,また名の1字だけのこともあり,さらには通称らしいものもあるようだが,刻工名を彫り込んだ版本を多数集めてみれば,時の天子の名など印刷のうえでも忌避すべき文字の,最終の1画を省略した形であらわしたりする〈欠画〉その他の研究とあわせ,ある特定の版本の同定に用いることができる。これは北宋の刊本だが南宋の補刻部分がある,というようなぐあいにである。
そこで中国でも日本でも刻工名の研究は版本学の一分野で,精密な表ができあがっている。この分野で長沢規矩也の業績は特に大きい。たとえば,また清朝に宋刊本にもとづいて復刻本をつくるようなとき,刻工名もそのままに復刻するということはごく当然のことと考えられた。同様のことが北宋刊本を南宋あるいは元代に復刻するときに起きえなかったとはいえない。印刷用紙の研究その他を重ね合わせたとしても,絶対の判定基準とは〈刻工名〉もまたなりえないであろう。なお,名人とうたわれるような刻工が,版心に名を刻するという形でなく,序のあとなどにはっきり彫り手の名として示されることは,はるか後代にも見られる。技術に対する刊行者の評価というべきもので,ときに版下の書き手である書家の名が本とともに伝わることがあるのと同性質のことである。
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執筆者:尾崎 雄二郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報