改訂新版 世界大百科事典 「原子力管理」の意味・わかりやすい解説
原子力管理 (げんしりょくかんり)
原子力が大量破壊兵器に使用される危険を防ぐため,その研究,開発,利用などを規制すること。第2次世界大戦後の軍縮交渉は,それ以前の兵器とはけた違いの破壊力を持つ原子兵器の処理が中心課題となった。国際連合総会は1946年1月,原子力が平和目的だけに使われるよう管理するため,国連原子力委員会United Nations' Atomic Energy Commissionの設置を決めた。同年6月に開かれた同委員会の第1回会議に,アメリカのバルークBernard Mannes Baruch代表は原子力国際管理案を提出した。バルーク案は,大国の拒否権を認めない国際原子力開発機関を設け,原子兵器の研究や原料,施設を含むすべての原子力活動を独占的に管理させようというもので,ソ連はこれを,アメリカが原子兵器を独占しソ連の原子力利用を抑えることをねらったものとみて反対した。結局,米ソのこの対立は国連の枠内で解決することができず,同委員会は1949年7月,大国間に協定の基礎ができるまで活動停止を決めた。53年12月末,アメリカのアイゼンハワー大統領は国連総会で原子力平和利用のための国際原子力機関の設置を提案した。その背景には,アメリカの原子力産業がすでに相当な規模に達し,原子力発電の市場を海外に求める必要に迫られていた,などの事情もあったが,当時,米ソ間の核管理交渉の行詰りや,冷戦,大量報復理論の展開に各国とも困惑していたところから,大いに歓迎された。ソ連も平和利用と核軍縮を切り離して扱うことに同意し,57年国際原子力機関International Atomic Energy Agency(IAEA。本部ウィーン)が発足した。IAEAの目的は原子力平和利用を援助するとともに,その利用が軍事目的に転用されないよう,主要原子力施設の設計審査や核燃料の数量確認,記録維持,立入り査察などの保障措置を実施することにある。
1962年のキューバ危機で核戦争の瀬戸際までいった米ソは,核時代の安全保障を確保するうえで,米ソ戦の回避と核兵器保有国の増加防止に共通の利益を見いだし,両国主導のもとに,翌63年8月に部分的核実験停止条約(PTBT)を,また68年7月に核不拡散条約(NPT)を締結した。前者は大気圏内外と水中の核実験を禁じているが,地下核実験は対象外なので,核大国の核開発続行には支障がない。条約期限は無期限。締約国は83年8月当時110ヵ国であった。また後者は,核兵器保有を認められる国を国連安保理常任理事国であるアメリカ,ソ連(現在はロシア連邦),イギリス,フランス,中国の5ヵ国に限定し,それ以外の国に対しては核兵器製造,保有および平和利用目的の核爆発実験といえども禁じているところから,不平等条約だという強い非難をあびながらも,国連総会の承認をとりつけた。期限は条約発効(70年3月)から25年経過後に協議とし(95年に無期限に延長),締約国は96年3月現在183ヵ国である。さらに1976年1月,中国を除く核技術輸出国であるアメリカ,ソ連,イギリス,フランス,西ドイツ,カナダ,日本など主要工業7ヵ国は核技術が兵器製造に違法に流用されるのを防ぐため,IAEAの査察義務づけなど,核技術の輸出管理と新しい歯止め措置開発について6項目の協定に合意した。スウェーデン,オランダ,イタリア,ベルギー,東ドイツもまもなく協定に参加した。
執筆者:八木沢 三夫
冷戦終結以後
ソ連のペレストロイカ期に1987年米ソで中距離核戦力(INF)全廃条約が調印されて以後,中国,フランス,ブラジル,南アフリカ共和国などもNPTに加盟した。またNPT加盟国だが核開発疑惑を持たれる国に対するIAEAの検証体制の強化が93年以後はかられた。さらに米ロが93年に第2次戦略兵器削減条約(STARTⅡ)を調印,91年のSTARTⅠにつづき戦略核弾頭数のいっそうの削減が目指された。PTBT以来の懸案であった地下核実験の禁止を含む包括的核実験禁止条約(CTBT)も96年国連で採択されたが,同条約に反対のインドの批准が発効条件である。また,この間にラテン・アメリカ非核地帯条約(1967)に続いて,南太平(1985),アフリカ(1995),東南アジア(1995)の各地域における同様の条約が採択され,南半球のほぼ全域に及ぶにいたった。こうして冷戦終結後,核不拡散体制は大いに普遍性を高めてきている。
→核実験
執筆者:竹内 一男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報