原宿村(読み)はらじゆくむら

日本歴史地名大系 「原宿村」の解説

原宿村
はらじゆくむら

[現在地名]渋谷区神宮前じんぐうまえ一―四丁目・千駄ヶ谷せんだがや二―三丁目、港区南青山みなみあおやま三―四丁目・西麻布にしあざぶ一―二丁目など

上渋谷村・隠田おんでん村の北東に位置する。北条氏所領役帳に島津衆の一人太田新次郎分として一一貫七〇〇文「江戸原宿」とみえる。

天正一九年(一五九一)伊賀衆の給地として与えられたという。田園簿に村名がみえ、田方一一〇石余・畑方一五一石余、伊賀衆領。「風土記稿」によると家数一一〇、用水玉川上水を分水して取水。


原宿村
はらじゆくむら

[現在地名]戸塚区原宿町

東は小雀こすずめ村・金井かない村、北は深谷ふかや村、南西は東俣野ひがしまたの村、北東は戸塚とづか宿、西は上俣野かみまたの村、南南西は深谷村飛地に接する。東海道が中央を貫き、途中に牡丹ぼたん坂がある。北東に下の谷したのや堀が発して南南西に流れる。中央字松葉まつばたま堀が発して東海道を横断し、南流して下の谷堀に落ちる。弘法こうぼう池が北方の字八幡山はちまんやまにある。正保国絵図に村名がみえる。

皇国地誌は、中世は村岡むらおか郷のうち庵野之原と称し、天正五年(一五七七)原宿村と称したという。


原宿村
はらじくむら

[現在地名]今市市原宿

南を板穴いたな川、北を川が東流して東で合流する。この二川の作る三角形の段丘西部を占める。河内かわち郡に属し、北は栗原くりばら村、東は高柴たかしば新田。集落は中央から北西部山麓にある。慶安郷帳に村名がみえ日光領、畑高五〇石余。同領への編入は寛永二一年(一六四四)と推定される。寛文六年(一六六六)検地帳(星進司文書)によれば畑・屋敷のみで計二八町四反余、約半分の一四町二反余が下畑、屋敷一町七反余。


原宿村
はらじゆくむら

[現在地名]都賀町原宿

家中いえなか村の西に位置し、西は村。慶長一四年(一六〇九)までは皆川広照領(延享元年「皆川歴代記」皆川又太郎文書)。慶安郷帳に村名がみえ、田八八石余・畑三〇八石余で武蔵岩槻藩領。元禄郷帳では高六四二石余で幕府領と旗本上野の相給。元禄一三年(一七〇〇)日光領の足知村となり、同一四年の日光領目録に高一一三石余とある。改革組合村では幕府領・下総古河藩領と旗本堀の三給で、家数五七。


原宿村
はらじゆくむら

[現在地名]花園町武蔵野むさしの

飯塚いいづか村の東に位置し、南は小前田おまえだ村、東は猿喰土ざるがいと村。村の西部を南北に中世の鎌倉街道上道が通り、この道は近世における中山道の脇往還と重なる。村内に馬継場が設けられ、南は小前田村、北は那賀なか広木ひろき(現美里町)へ人馬を継立てたという(「鎌倉街道上道」歴史の道調査報告書)。当村は猿喰土村とともに飯塚村から分村して成立したが、元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳に飯塚村枝郷「原宿猿喰土」高三〇六石余、旗本木下領とある。


原宿村
はらじゆくむら

[現在地名]石下町原宿

小保川おぼかわ村の西に所在。現水海道みつかいどう市と現下妻市を結ぶ街道に沿っている。寛永七年(一六三〇)の下総国豊田庄本石下村宮田新田御検地水帳(吉原家文書)によれば江戸初期には本石下もといしげ村のうちで宮田みやた新田と称し、名請人一三名の屋敷地合計三反九歩。明治二年(一八六九)三月の本石下村明細帳(新井家文書)に「寛文二寅年土井周防守様御改有之、中石下村上石下村、原宿村三ケ村へ分郷に相成候」とあり、寛文二年(一六六二)土井利益(のち古河藩主)による検地の際に本石下村から分れて原宿村として独立し、「寛文朱印留」には土井利益領として出ている。


原宿村
はらじゆくむら

[現在地名]日高市原宿・あさひおか

鹿山かやま村の北にあり、西は新堀にいほり村、東は新堀新田。田園簿では高一四四石余で皆畑、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本酒井領。以後幕末まで変わらない。検地は寛永一三年(一六三六)に行われた。東方に持添新田二ヵ所があり、両所とも武蔵野新田のうち。


原宿村
はらじゆくむら

[現在地名]神崎町古原こはら

古山ふるやま村の南に位置する。寛永期(一六二四―四四)古山村から分村したという(延享二年「野手村外八箇村明細帳」海保家文書)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分に村名がみえ、「古ハ古山村枝郷」と注記される。高一七九石余で幕府領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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