飯塚村(読み)いいづかむら

日本歴史地名大系 「飯塚村」の解説

飯塚村
いいづかむら

[現在地名]花園町武蔵野むさしの

現花園町北西端、西に細長く延びる村。東は原宿はらじゆく村、南は桜沢さくらざわ(現寄居町)。東部は平坦地であるが西部は山となり、榛沢はんざわ郡の最高峰である鐘撞堂かねつきどう(三三〇・二メートル)がある。猪俣党に属する藤田氏行(摂津一ノ谷合戦で討死した行安の孫)は飯塚掃部左衛門尉と称し(「岡部系図」大阪府岡部和子氏蔵)、飯塚氏は当地を名字の地としたと推定される。字東番屋ひがしばんやには飯塚氏館跡と称される地があり、現在水堀・空堀の一部が残存する。応永三年(一三九六)一〇月一八日に頓写された現栃木県日光市輪王りんのう寺が所蔵する大般若経巻第四一〇の奥書に「武州榛沢郡藤田北飯塚常楽坊」とある。文明八―九年(一四七六―七七)、関東管領上杉顕定に背いた長尾景春五十子いかつこ(現本庄市)を攻めたが、その頃景春は飯塚から「小河」の太田道灌を訪れ、加勢を要請している(同一二年一一月二八日「太田道灌書状写」松平文庫所蔵文書)


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]山形市飯塚町・石関いしぜき金石田かないしだ目田めだ柳田やなぎだ横道よこみち砂田すなだ千代田ちよだ中沼なかぬま西見田にしみだ宮浦みやうら西原辻にしはらつじ

沼木ぬまぎ村の北に位置し、川の東岸平地に立地。中世の古城跡があるが、城主は不明。最上氏改易後は山形藩領、弘化二年(一八四五)上野館林藩領となる。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高一千五八七石余。正保郷帳では田一千四〇五石余・畑一八一石余・寺社領七石。宝永七年(一七一〇)頃の村々大概帳(横山文書)では高二千一九五石余、反別田七五町九反余・畑二三町三反余、本百姓数六八、人数四三八、馬六。


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]八日市場市飯塚

香取郡に属し、内山うちやま村の南東に位置する。南は匝瑳そうさ山桑やまくわ村・椿つばき村。東は江戸時代初期には椿海に面していた。中世は匝瑳南条そうさなんじよう庄に属したとみられ、在地領主としては千葉氏族の椎名氏が知られる。神代本千葉系図は松山系椎名氏の一流に飯塚氏を載せ、松山信胤の孫に飯塚弥四郎をあげている。建長七年(一二五五)二月六日の観経定善義聞書(金沢文庫蔵)の識語に「談処下総国匝(ママ)飯塚御庄内松崎郷福岡村」とあり、同六年一二月以降、庄内の福岡ふくおか村において然阿良忠が観経定善義を講じている。松崎まつざき郷の比定地は未詳であるが、亀崎かめざきに字松崎、富岡とみおか長岡ながおか・飯塚に字まつさきが現存しており、いずれも遺称地の可能性がある。


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]太田市飯塚町

飯田いいだ村の南にあり、東はうちしま村、西は西矢島にしやじま村、南は東矢島村。嘉応二年(一一七〇)の新田庄田畠在家目録写(正木文書)に「いゝつかの郷 田二町 畠一反 在家一う」とみえる。しかし、正元元年(一二五九)一二月二三日の関東下知状(長楽寺文書)では、亡父が未処分であったため佐貫氏と思われる藤原秀家が兄弟の家時と和与し、「邑楽御厨飯(塚)郷内名田参町・在家弐宇」の領知を幕府より認可された。また乾元二年(一三〇三)五月六日の僧了見寄進状案(同文書)では、平三郎入道作の上佐貫かみさぬき庄飯塚郷内名田一町を長楽ちようらく(現新田郡尾島町)に寄進している。一方、嘉暦三年(一三二八)八月二六日の小柴盛光妻紀氏寄進状案(同文書)によると、盛光妻紀氏が先に買得した新田につた庄内飯塚郷内田五町七反・在家三宇等の田畠在家を長楽寺に寄進したとあり、この地はもと鳥山成経の所領であった(年月日未詳「長楽寺寺領目録案」同文書)


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]飯塚市本町ほんまち宮町みやまち・飯塚・吉原町よしはらまち西徳前にしとくぜん西町にしまちなど

遠賀おんが(嘉麻川)穂波ほなみ(飯塚川)の合流点よりわずか上流の穂波川両岸に位置し、南は堀池ほりいけ(現穂波町)。長崎街道の筑前六宿の一宿飯塚宿が設けられ、民居は穂波川を隔てて北の本村と南の向町むかいまちにあった(続風土記拾遺)。文明一〇年(一四七八)九月二五日の大内政弘下文案(「正任記」同一〇年一〇月二日条)によれば、「穂波郡飯塚十五町地仁保因幡守伝国跡」が勲功賞として大内氏家臣安富武忠に宛行われている。


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]玉村町飯塚

南は樋越ひごし村、西は藤川ふじかわ村、東はいま(現伊勢崎市)。嘉暦三年(一三二八)四月五日、那波宗元は重代相伝の私領「飯塚郷」を世良田長楽せらだちようらく(現新田郡尾島町)に寄進、七月一七日に幕府は関東御教書(案、長楽寺文書)で宗元寄進地を再寄進している。当時の飯塚郷は田五六町七反・分銭二五一貫七〇〇文であった(年未詳「長楽寺寺領目録案」同文書)。その後も同寺領として続き、貞治四年(一三六五)の寺領注文(同文書)に郷名がみえる。嘉暦三年一〇月一八日、大谷道海は売得した郷内の在家を同寺に寄進している(「大谷道海寄進状案」同文書)


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]葛飾区南水元みなみみずもと一―二丁目・水元みずもと一丁目・西水元にしみずもと一―二丁目・新宿にいじゆく六丁目

猿ヶ俣さるがまた村の南に位置し、南は新宿町、東は下小合しもこあい村・上小合村、西は中川を隔て足立郡大谷田おおやた(現足立区)。応永五年(一三九八)八月日の葛西御厨田数注文写(鏑矢記)に「飯塚 五町四段小 公田九反」とみえ、葛西かさい御厨の内であった。また年月日未詳の葛西御厨入部注文写および葛西御厨田数注文写(ともに鏑矢記)には「飯塚 六町三段小」と記される。注文写には猿俣さるがまた・小鮎・金町かなまちとともに香取社宝殿造営役所とされており、下総香取神宮遷宮の際には宝殿造営料を課されていた。北条氏所領役帳には会田中務丞信清の所領として 「葛西飯塚」九三貫四〇〇文がみえ、半役であった。


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]岩槻市飯塚

村国むらくに村の南西、元荒川右岸に位置する。村域は岩槻台地の舌状部とそれを取巻く谷地、沖積平野からなり、台地上に集落が形成されている。法華ほつけ寺を中心に南北朝初期には村が成立しており、建武元年(一三三四)二月六日の足利尊氏御判御教書(法華寺文書)に「飯塚村法華寺」とみえる。

江戸時代には宝暦六年(一七五六)まで岩槻藩領、以後は幕府領。田園簿によると高は田方三一四石余・畑方四〇四石余。延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)では家数五七(本百姓五〇・水呑七)、人数三二一、岩槻藩の地方支配は下郷しもごう筋に所属。


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]越路町飯塚

下条げじよう村の南。集落は渋海しぶみ川を挟んで左岸に飯塚、右岸に中島なかじま十楽寺じゆうらくじがある。正保国絵図に三島郡「飯塚村」高二〇五石余がみえる。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では高四五三石四斗余のうち山高三石・漆高四石一斗余。ほかに高二二石一斗余と高四石余の新田二ヵ所がある。近世初めは高田藩領、天和元年幕府領、貞享三年(一六八六)相模国小田原藩稲葉氏領、寛政元年(一七八九)長岡藩領となり明治に至る。


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]佐倉市飯塚

内田うちだ村の東、弥富やとみ川左岸に位置。中世は白井しらい塩古しおこ郷のうちとされ、地名に塩古橋しおこばしがある。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道覚帳に塩古村と併記して村名がみえ、高八〇〇石、普請間数二町一〇間。天正一八年(一五九〇)に北条氏勝(岩富藩)領になったとみられる。「寛文朱印留」では佐倉藩領で、以後幕末まで同藩領。元禄郷帳では高二四七石余。寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚によれば高二五三石余、夫役永七二四文・林下刈代鐚二〇〇文・山銭鐚四貫三七文・同一貫二七六文。享和期(一八〇一―〇四)の佐倉七牧付村々高帳などによれば小間子おまご牧の牧付村で、勤高二五三石余。


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]高崎市飯塚町・大橋町おおはしまち芝塚町しばづかまち飯玉町いいだままち問屋町とんやまち一―四丁目

城下と赤坂あかさか村の北にあり、北は下小鳥しもことり村とその東の浜尻はまじり村、西は下並榎しもなみえ村。城下から下小鳥村に向かって三国街道が通る。群馬郡に属し、元和五年(一六一九)安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)では中郷に村名がみえる(高崎藩領)。高一千六八九石余、田方一一一町余・畑方二九町三反余。元禄七年(一六九四)から高崎宿の助郷村となった(更正高崎旧事記)。同藩領における明治二年(一八六九)の家数人数取調帳(小島文書)では上飯塚村一千五五石余・下飯塚村六三四石余に分れて記される。


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]飯田川町飯塚

八郎潟の東岸に位置し、羽州街道に沿う。湖岸の浜飯塚はまいいづか(現飯塚浜)と山沿いの岡飯塚おかいいづか村からなり、南は和田妹川わだいもがわ村、北は浜井川はまいかわ(現井川町)に接し、西は湖岸沖積平野である。岡飯塚の中山なかやまに神明社観音堂があり、室町末期の建立といわれ、観音尻かんのんじりには観音寺跡がある。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に太閤蔵入地として「七百三拾九石七斗七升一合 岡いつか村 浜いつか村 小たけはな村」とみえる。文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)には「五百三拾石六斗弐升壱合 飯塚村」とある。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に四五七石、享保七年(一七二二)の秋田郡郡境本村支村御高共調帳(秋田県立博物館蔵)に「御蔵入、給分共、当高五百弐拾壱石五升八合」とある。


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]川口市飯塚一―四丁目・川口三―六丁目・飯原町いいはらちよう

川口町の西に位置し、平坦な村。南側に持添新田がある(風土記稿)。田園簿では田二五四石余・畑六六石余で、幕府領。元禄一〇年(一六九七)の検地帳(遠山家文書)によると高二八八石余、うち田二〇三石余・畑屋敷八四石余と、若干の減となっている。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。宝永三年(一七〇六)江戸根津ねづ権現社領となったとされ(風土記稿)、以後幕末まで変わらなかったが、幕末の改革組合取調書では同社領二八八石余のほかに幕府領一石余がある。


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]福島市飯坂町いいざかまち平野ひらの

入江野いりえの村と平田ひらた村に囲まれるが、平田村内に飛地もあり(福島市史)、境界は明瞭でない。天文二二年(一五五三)晴宗公采地下賜録によると、白石弥平兵衛に信夫しのぶ庄「飯塚方ふんいゝつか」全部などが与えられている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録には記載がない。近世初期の邑鑑によると高三五四石、免三ツ一分、家数九(役家二、肝煎一、寺・山伏・座頭・脇家六)、人数二七、役木として桑・楮がある。


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]珠洲市正院町飯塚しよういんまちいいづか

小路こうじ村の北にあり、「三州志」は乙屋間おとやま山田谷内やまだやち丸山まるやまの垣内名を記す。正保郷帳に村名がみえ、高四〇九石余、田二五町四反余・畑一町八反余、新開高八七石余(免三ツ四歩)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高五二三石、免五ツ、新開高一〇石余、小物成は山役一四八匁、鳥役二匁(出来)であった(三箇国高物成帳)


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]福井市飯塚町・西学園にしがくえん一―三丁目

福井城下の西方、足羽川右岸に位置し、水越みずこし村の西南にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では北庄下きたのしようしも郷に含まれる。正保郷帳に村名がみえ田方五二二石余・畠方二四三石余。福井藩領。西端に神明しんめい神社(旧村社)と並び、観音堂がある。「越前国名蹟考」は「越前国郡県細志」を引いて「近年霊験の観音出で、国中貴賤群集す」と記し、嘉永七年(一八五四)の縁起は行基の開基と伝える。


飯塚村
いいつかむら

[現在地名]笠間市飯合いいごう

稲田いなだ川左岸にあり、北は飯岡いいおか村、西は大郷戸おおごと村。中世は笠間氏の支配下にあり、江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。茨城郡山内南郷村差出帳(石井家文書)によると慶安二年(一六四九)の検地で村高一三〇・七六六石となり、万治三年(一六六〇)・延宝二年(一六七四)の新開検地で合せて五石余を打出す。村には村山一、四壁山一〇、溜池一、堰二などがあり、延享四年(一七四七)の戸数二五・人数八二、馬一四。


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]藤岡町大前おおまえ

赤間あかま村の西にあり、南北に走る段丘と低湿地からなる。西は大崎おおさき村。古くは登美とみと称し、たたら製鉄に従事する者の居住地だったと伝える。元和八年(一六二二)下総古河藩永井氏による検地を受け、高請百姓は二二軒(「検地帳」五十畑源蔵文書)。慶安郷帳に村名がみえ、田六七石余・畑八一石余。


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]宇土市恵塚えづか

東は下椿原しもつばはら村、西は城塚じようづか村、南は宮荘みやのしよう村、北は下恵里しもえり村・鶴見塚つるみづか村・伊津野いつの村に接する。慶長国絵図に村名がみえ、近世は郡浦手永に属した。天保八年(一八三七)の郡浦手永略手鑑によると竈数一五・人数七〇・役男一八、本方高二四四石一斗余、田七町四反余・畑九町四反六畝余、本方永荒田畑一反八畝余、諸開二反七畝余。


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]豊浦町下飯塚しもいいづか

北は乙次則持おとじのりもち村、南は吉浦よしうら村。中世は豊田とよた庄に属し、永和三年(一三七七)一一月二二日の宗仙打渡状(山形大学所蔵中条家文書)に「豊田庄本随条内飯塚」とある。慶長三年(一五九八)新発田藩領となり、同一〇年の給知方村々高目録(新発田市史資料)では毛付七八石八斗余・荒三五二石七斗余。


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]妻沼町飯塚

利根川右岸の氾濫原に位置し、北は太田おおた村。寛永二年(一六二五)一二月、深津弥左衛門(正吉)は徳川氏から飯塚村内で四〇〇石を宛行われた(記録御用所本古文書)。田園簿によれば田方四二七石余・畑方三二七石余、旗本深津二家と同山本家の相給。国立史料館本元禄郷帳では旗本深津三家と山本家の相給で、以後変化なく幕末に至る(改革組合取調書など)


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]笹神村上飯塚かみいいづか

北はえのき、南は榎船渡えのきふなと村・船居ふない村に接する。正保国絵図に一八〇石余とあり、村上藩領であった。寛文一三年(一六七三)の組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では山崎組に属し、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高一五六石余とある。


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]柏崎市飯塚

東は曾地そち峠を経て小黒須おぐろす村、西は花田はなだ村、南は曾地村、北は赤田あかだ(現刈羽郡刈羽村)。近世は元和二年(一六一六)から同四年の長峰藩牧野忠成領以外は高田藩に属したが、藩主稲葉氏以後与板藩領となり、上山藩領を経て幕末に至る。正保国絵図に高二一〇石。


飯塚村
いいづかむら

[現在地名]上越市飯塚

川端かわばた村の南東、飯田いいだ川左岸に位置。正保国絵図によると高二〇五石余。天和三年郷帳では高二四一石三斗余。近世末には高田藩預所。郷蔵があり、文政五年(一八二二)の蔵米点検書上控(上越市教育委員会蔵)によれば米八四俵を収蔵していた。


飯塚村
いいつかむら

[現在地名]真壁町飯塚

桜川左岸にあり、東は町屋まちや村。中世は真壁庄に属し、享徳五年(一四五六)六月三日の足利成氏御教書(真壁文書)に真壁氏の庶子飯塚近江守の名がある。慶長一一年(一六〇六)浅野氏領、元和八年(一六二二)笠間藩領となり、「寛文朱印留」に村名が載る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android