吉住小三郎(読み)ヨシズミコサブロウ

デジタル大辞泉 「吉住小三郎」の意味・読み・例文・類語

よしずみ‐こさぶろう〔‐こサブラウ〕【吉住小三郎】

長唄唄方。
(初世)[1699~1753]摂津の人。唄浄瑠璃を得意とし、名人とうたわれた。
(4世)[1876~1972]3世杵屋六四郎(のち2世稀音家浄観きねやじょうかん)とともに長唄研精会を創設し、純音楽としての長唄の普及に努めた。特に唄浄瑠璃風の曲に妙味を発揮。文化勲章受章。

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精選版 日本国語大辞典 「吉住小三郎」の意味・読み・例文・類語

よしずみ‐こさぶろう【吉住小三郎】

  1. 長唄の唄方。四世。三世の養子。明治三五年(一九〇二三味線の三世杵屋六四郎(のち稀音家浄観)とともに長唄研精会を起こし、劇場を離れた純音楽としての長唄の確立に努力。昭和三二年(一九五七)文化勲章受章。同三八年慈恭と改名。明治九~昭和四七年(一八七六‐一九七二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉住小三郎」の意味・わかりやすい解説

吉住小三郎
よしずみこさぶろう

長唄(ながうた)唄方。6世を数えるが、初世と4世が著名。

[渡辺尚子]

初世

(1699―1753)吉住家の始祖。住吉神社神官(伶人(れいじん)か)の出身といわれ、「住吉」を逆にして姓としたといわれる。『京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)』初演の立唄(たてうた)として著名。初期長唄の名人に数えられている。2世(1799―1854)は3世芳村(よしむら)伊三郎門弟で、1846年(弘化3)に2世を襲名した天保(てんぽう)年間(1830~44)の長唄の名手。3世(1832―89)は2世の門弟で、1860年(万延1)に襲名した。

[渡辺尚子]

4世

(1876―1972)3世の養子で、養父に師事。1890年(明治23)4世を襲名。3世杵屋六四郎(きねやろくしろう)(後の2世稀音家浄観(きねやじょうかん))とともに1902年(明治35)長唄研精会(けんせいかい)を創設。歌舞伎(かぶき)を離れ、純音楽としての演奏会長唄の普及発展に力を尽くす。29年(昭和4)東京音楽学校講師、36年同校教授となる。63年慈恭(じきょう)と改名。作曲にも優れ、『鳥羽(とば)の恋塚』『醍醐(だいご)の花見』などを残している。また浄観との合作には『お七吉三(きちさ)』『寒山拾得(かんざんじっとく)』『紀文大尽(きぶんだいじん)』『神田祭』『一休禅師』『みやこ風流』などがある。芸術院会員、重要無形文化財保持者で、57年に文化勲章を受章。

[渡辺尚子]

5世

(1908―83)4世の実子。父に師事。前名小太郎。1963年(昭和38)5世を襲名。

[渡辺尚子]

6世

(1931―2006)5世の長男。本名吉住隆雄。祖父慈恭に師事。前名吉住小三治郎(こさじろう)。1983年1月、5世没後6世を襲名。

[渡辺尚子]

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改訂新版 世界大百科事典 「吉住小三郎」の意味・わかりやすい解説

吉住小三郎 (よしずみこさぶろう)

長唄の唄方。現在まで6世を数えるが,初世,2世,4世が著名。(1)初世(1699-1753・元禄12-宝暦3) 摂津国(大阪)住吉神社の神官(あるいは伶人か)の出身で,〈住吉〉を逆にして吉住を名のったと伝える。初名は仙次郎。6世杵屋(きねや)喜三郎あるいは4世中山小十郎の門弟といわれ,唄浄瑠璃を得意とした。1753年(宝暦3)3月,中村座の《京鹿子娘道成寺(きようがのこむすめどうじようじ)》初演の立唄(たてうた)をつとめて好評を博す。坂田兵四郎,初世松島庄五郎とともに初期長唄の唄方を代表する名手である。(2)2世(1799-1854・寛政11-安政1) 3世芳村伊三郎の門弟。初名芳村五郎治。その後,吉住小八,3世芳村伊十郎,花垣五郎三郎を名のり,1846年(弘化3),2世吉住小三郎を襲名。もと江戸の四谷で芋屋を営んでいたことから〈芋五郎の小三郎〉と呼ばれた。2世富士田音蔵岡安喜代八(1792-1870)(のちの3世岡安喜三郎)とともに天保の三名人といわれた。(3)3世(1832-89・天保3-明治22) 2世の門弟で前名小太郎。1860年(万延1)に3世を襲名。(4)4世(1876-1972・明治9-昭和47) 吉住勘四郎の子。3世の義弟で,のちその養子となる。1890年4世を襲名。初め歌舞伎座に出勤していたが,1902年,3世杵屋六四郎(のちの2世稀音家(きねや)浄観)とともに長唄研精会(研精会)を結成,長唄を健全な家庭音楽として普及・発展させた。48年日本芸術院会員,56年重要無形文化財保持者各個指定(人間国宝)に認定され,57年文化勲章を受章。63年,吉住慈恭(じきよう)と改名。作曲には《鳥羽の恋塚》《醍醐の花見》などが,六四郎との合作には《紀文大尽(きぶんだいじん)》《神田祭》《お七》《みやこ風流》などがある。(5)5世(1908-83・明治41-昭和58) 4世の子。父に師事する。前名小太郎。1963年5世を襲名。(6)6世(1931(昭和6)- )5世の長男。祖父慈恭に師事する。前名小三治郎。1983年6世を襲名した。
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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「吉住小三郎」の解説

吉住 小三郎(6代目)
ヨシズミ コサブロウ


職業
長唄唄方

肩書
吉住流家元(6代目),長唄研精会主宰,長唄吉住会会長

本名
吉住 隆雄(ヨシズミ タカオ)

別名
前名=吉住 小三治郎

生年月日
昭和6年 11月6日

出生地
東京都

学歴
東京芸術大学邦楽科〔昭和29年〕卒,東京芸術大学研究科〔昭和31年〕修了

経歴
5代目吉住小三郎の長男で、祖父の4代目小三郎(慈恭)に学ぶ。昭和30年小三治郎を名乗り、同年長唄研精会に初出演。52年長唄十人会を結成。5代目没後の59年、6代目小三郎を襲名。60年長唄協会常任理事、のち副会長。NPO法人・三味線音楽普及の会理事長も務めた。

所属団体
長唄協会

没年月日
平成18年 6月18日 (2006年)

家族
父=吉住 小三郎(5代目),祖父=吉住 小三郎(4代目),長男=吉住 小三次朗


吉住 小三郎(5代目)
ヨシズミ コサブロウ


職業
長唄唄方

肩書
吉住流家元,長唄協会副会長

本名
吉住 秀雄

別名
前名=吉住 小太郎(2代目)

生年月日
明治41年 1月28日

出生地
東京

経歴
重要無形文化財だった4代目吉住小三郎の長男。大正13年2代目吉住小太郎を継承。東京音楽学校で教えるなど後輩の指導に尽くす一方、4代目らが長唄普及のため明治35年に創設した長唄研精会を継ぎ、その伝統を守り続けた。昭和38年に5代目小三郎を襲名。

没年月日
昭和58年 1月16日 (1983年)

家族
父=吉住 小三郎(4代目),息子=吉住 小三郎(6代目)


吉住 小三郎(3代目)
ヨシズミ コサブロウ


職業
長唄唄方

肩書
吉住流家元

別名
前名=吉住 小太郎

生年月日
天保3年

出生地
江戸(東京都)

経歴
2代目吉住小三郎の門弟で、大薩摩太夫名は2代目大薩摩源氏太夫を名乗る。嘉永3年頃から芝居に出演、安政2年2枚目昇進、万延元年11代目杵屋六左衛門に推されて3代目小三郎を襲名した。中村座の「更名所作三番叟」をつとめて立唄に昇進。得意は「翁三番叟」「石橋」「二人椀久」「角兵衛」など。

没年月日
明治22年 12月25日 (1889年)

家族
実子=吉住 小四郎(4代目),養子=吉住 小三郎(4代目)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「吉住小三郎」の解説

吉住 小三郎(4代目)
ヨシズミ コサブロウ

明治〜昭和期の長唄唄方 吉住流家元;東京音楽学校教授。



生年
明治9年12月15日(1876年)

没年
昭和47(1972)年2月27日

出生地
東京・新宿

別名
幼名=長次郎,後名=吉住 慈恭(ヨシズミ ジキョウ)

主な受賞名〔年〕
文化勲章〔昭和32年〕

経歴
江戸長唄唄方の家元・3代目吉住小三郎の義弟で、のち養子となる。明治23年4代目を襲名、歌舞伎座の囃子部屋に勤める。26年三味線の3代杵屋六四郎(後の稀音家浄観)とともに退座し、35年長唄研精会を結成、それまで歌舞伎の伴奏音楽とばかりみられていた長唄を演奏会形式で広く社会に紹介した。昭和4年東京音楽学校講師、11年教授となったが、19年には引退。戦後の23年に芸術院会員、31年人間国宝、32年文化勲章受章。38年に米寿を記念して実子小太郎に小三郎の名を譲り、吉住慈恭と改名した。作曲に「鳥羽の恋塚」「醍醐の花見」「富士太鼓」などがあり、演奏の集成したものに「四世吉住小三郎全集」「吉住慈恭独吟集」などがある。


吉住 小三郎(5代目)
ヨシズミ コサブロウ

昭和期の長唄唄方 吉住流家元;長唄協会副会長。



生年
明治41(1908)年1月28日

没年
昭和58(1983)年1月16日

出生地
東京

本名
吉住 秀雄

別名
前名=吉住 小太郎(2代目)

経歴
重要無形文化財だった4代目吉住小三郎の長男。大正13年2代目吉住小太郎を継承。東京音楽学校で教えるなど後輩の指導に尽くす一方、4代目らが長唄普及のため明治35年に創設した長唄研精会を継ぎ、その伝統を守り続けた。昭和38年に5代目小三郎を襲名。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「吉住小三郎」の解説

吉住小三郎(4代)

没年:昭和47.2.27(1972)
生年:明治9.12.15(1876)
明治から昭和にかけての長唄唄方。東京生まれ。3代目小三郎の義弟で,のち養子となる。明治23(1890)年に4代目小三郎を襲名し,同年に歌舞伎座での「京鹿子娘道成寺」に初出勤した。しばらくは歌舞伎座で活動していたが,26年に3代目杵屋六四郎(のち2代目稀音家浄観)と共に退座した。のちにふたりが中心となって,長唄を純粋鑑賞音楽として演奏する「長唄研精会」を35年に組織。その例会などで六四郎との合作や,または小三郎自身が作曲した新曲を発表しつつ演奏活動を行った。小三郎が単独で作曲したものに「鳥羽の恋塚」や「新平家物語」の中の「君立川」などがある。昭和38(1963)年に小三郎の名を実子小太郎に譲り,自らは慈恭と名乗った。芸風は初代常磐津林中や荻江節の影響を受け,軽妙な節回しが特徴的であったという。32年文化勲章を受章。小三郎の名跡は,平成期まで6代を数える。<著作>『芸の心』

(長葉子)


吉住小三郎(2代)

没年:安政1.2.11(1854.3.9)
生年:寛政12(1800)
江戸後期の長唄唄方。3代目芳村伊三郎の門人で,初名芳村五郎治。その後,一時坂田と改姓,再び芳村にもどった。吉住小八を名乗ったのち,3代目芳村伊十郎を継いだが,芳村一門から苦情が出たため名跡を返して,花垣五郎三郎を名乗った。弘化3(1846)年,10代目杵屋六左衛門から2代目吉住小三郎の名跡を譲られた。もと江戸四谷で芋屋を営んでいたので「芋五郎の小三郎」と呼ばれた。非常な美声家で,3代目岡安喜三郎,2代目富士田音蔵と共に天保の三名人に数えられている。4代目杵屋弥十郎の三味線でメリヤス「五大力」を唄い終わり,「いい心持ちだ」といいおえて急逝したと伝えられている。<参考文献>吉住慈恭『芸の心』

(植田隆之助)


吉住小三郎(初代)

没年:宝暦3.7.16(1753.8.14)
生年:元禄12(1699)
江戸中期の長唄唄方。もとは大坂の住吉神社の神官(または伶人か)で「吉住」の名は住吉を逆にしたものという。「京鹿子娘道成寺」や「相生獅子」などの初演で唄い,好評を博した。

(長葉子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

百科事典マイペディア 「吉住小三郎」の意味・わかりやすい解説

吉住小三郎【よしずみこさぶろう】

長唄唄方の芸名。6世まで。初世〔1699-1753〕は《相生獅子》《京鹿子娘道成寺》などを江戸で初演した人。4世〔1876-1972〕は東京生れ。3世杵屋六四郎(2世稀音家浄観)とともに長唄研精会を結成して演奏会形式で長唄を演奏し,そのための作曲も行った。浄観との合作の《紀文大尽》《神田祭》などが有名。1948年芸術院会員,1956年人間国宝,1957年文化勲章。1963年5世を子に譲り吉住慈恭を名乗る。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉住小三郎」の意味・わかりやすい解説

吉住小三郎(4世)
よしずみこさぶろう[よんせい]

[生]1876.12.15. 東京
[没]1972.2.27. 東京
長唄唄方。3世吉住小三郎の次男,1890年4世を相続。初め芝居に出勤していたが,1902年8月,3世杵屋六四郎 (のち2世稀音家浄観) とともに「研精会」を組織,劇場を離れた純粋の音楽としての長唄を普及するとともに,六四郎と多くの新曲を合作し,世人の好評を博し,長唄界に貢献した。 63年5世を実子に譲り,慈恭と改名。日本芸術院会員,重要無形文化財保持者,文化勲章受章。

吉住小三郎(6世)
よしずみこさぶろう[ろくせい]

[生]1931.11.6. 東京
[没]2006.6.18.
長唄唄方。本名吉住隆雄。5世吉住小三郎の長男。前名吉住小三治郎。祖父の吉住慈恭に師事。1984年 6世を襲名。長唄研精会,長唄吉住会を主宰。

吉住小三郎(5世)
よしずみこさぶろう[ごせい]

[生]1908.1.28. 東京
[没]1983.1.16. 東京
長唄唄方。4世吉住小三郎の実子。本名吉住秀雄。 1963年5世襲名。「研精会」の総帥であるとともに,作曲方面にも活躍した。

吉住小三郎(1世)
よしずみこさぶろう[いっせい]

[生]元禄12(1699)
[没]宝暦3(1753)
長唄唄方。摂津堺の住吉神社の神官の出,神社名にちなんで吉住と名のったという。唄浄瑠璃が得意で,坂田兵四郎,松島庄五郎に伍して活躍した名手。

吉住小三郎(2世)
よしずみこさぶろう[にせい]

「芳村伊十郎(3世)」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉住小三郎」の解説

吉住小三郎(2代) よしずみ-こさぶろう

1800-1854 江戸時代後期の長唄唄方。
寛政12年生まれ。3代芳村(よしむら)伊三郎の門弟。初名は芳村五郎治。のち吉住小八,3代芳村伊十郎,花垣五郎三郎をへて,弘化(こうか)3年2代を襲名。もと芋(いも)屋だったので「芋五郎の小三郎」とよばれた。3代岡安喜三郎,2代富士田音蔵とともに天保(てんぽう)の三名人といわれ,唄浄瑠璃(うたじょうるり)を得意とした。嘉永(かえい)7年2月11日死去。55歳。

吉住小三郎(4代) よしずみ-こさぶろう

1876-1972 明治-昭和時代の長唄唄方。
明治9年12月15日生まれ。3代小三郎の義弟。のち養子となり明治23年4代を襲名。35年3代杵屋(きねや)六四郎と「長唄研精会」をつくり,演奏会用長唄の普及発展につくした。作曲にもすぐれた。昭和11年東京音楽学校教授。芸術院会員。31年人間国宝。32年文化勲章。38年慈恭(じきょう)と改名。昭和47年2月27日死去。95歳。東京出身。

吉住小三郎(初代) よしずみ-こさぶろう

1699-1753 江戸時代中期の長唄唄方。
元禄(げんろく)12年生まれ。大坂の住吉神社の神職(楽人)の出で,住吉を逆にして吉住と名のったという。6代杵屋(きねや)喜三郎の門弟とされる。宝暦3年の「京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)」初演の際,立唄(たてうた)をつとめて好評を博した。宝暦3年7月16日死去。55歳。初名は仙次郎。号は喜鳳。

吉住小三郎(3代) よしずみ-こさぶろう

1832-1889 幕末-明治時代の長唄唄方。
天保(てんぽう)3年生まれ。2代吉住小三郎の門弟で,前名は小太郎。万延元年3代を襲名。明治22年12月25日死去。58歳。江戸出身。
【格言など】間もなく死ぬぞ(最期の言葉)

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367日誕生日大事典 「吉住小三郎」の解説

吉住 小三郎(4代目) (よしずみ こさぶろう)

生年月日:1876年12月15日
明治時代-昭和時代の長唄唄方
1972年没

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世界大百科事典(旧版)内の吉住小三郎の言及

【寒山拾得】より

…1911年9月文芸協会私演場で初演。作曲4世吉住小三郎・3世杵屋(きねや)六四郎(2世稀音家浄観)。振付2世藤間勘右衛門。…

【紀文大尽】より

…作詞中内蝶二。作曲4世吉住小三郎,3世杵屋(きねや)六四郎。吉原で豪遊する2代目紀伊国屋文左衛門が,江戸時代の元禄期に巨万の富を得た父紀文が,若き日に悲壮な決意をもって蜜柑(みかん)船で江戸に乗り込む夢を見る。…

【研精会】より

…正式名称は長唄研精会。4世吉住小三郎(のちの慈恭(じきよう))と3世杵屋六四郎(のちの2世稀音家浄観(きねやじようかん))によって創設された。従来,歌舞伎に付随していた長唄を鑑賞用音楽として独立させ,会員制度による演奏会開催を企画,1902年8月19日,東京日本橋俱楽部で第1回演奏会を開いた。…

【芳村伊十郎】より

…1808年(文化5)2世伊十郎を襲名,2世坂田仙四郎を経て,24年(文政7)3世伊三郎を襲名。(3)3世(1799‐1854∥寛政11‐安政1) 2世吉住小三郎の前名。(4)4世(1832‐82∥天保3‐明治15) 本名石川清之丞。…

※「吉住小三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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