寒山拾得(読み)カンザンジットク(英語表記)Hán shān, Shí dé

デジタル大辞泉 「寒山拾得」の意味・読み・例文・類語

かんざん‐じっとく【寒山拾得】

寒山拾得の二人の僧。寒山が経巻を開き、拾得がほうきを持つ図は、禅画の画題。
舞踊劇。長唄。坪内逍遥つぼうちしょうよう作詞、4世吉住小三郎・3世杵屋六四郎きねやろくしろう作曲、藤間勘右衛門振り付け。明治44年(1911)初演。雪舟の「寒山拾得図」の枯淡、洒脱しゃだつな感じを表現。

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精選版 日本国語大辞典 「寒山拾得」の意味・読み・例文・類語

かんざん‐じっとく【寒山拾得】

  1. [ 一 ] 唐の詩僧、寒山とその友人、拾得。また、寒山拾得図。→寒山拾得
  2. [ 二 ] 長唄の舞踊劇。坪内逍遙作。四世吉住小三郎、三世杵屋六四郎作曲。藤間勘右衛門振付。明治四四年(一九一一)初演。

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改訂新版 世界大百科事典 「寒山拾得」の意味・わかりやすい解説

寒山・拾得 (かんざんじっとく)
Hán shān, Shí dé

中国,唐代の隠者,詩人である寒山と拾得のこと。9世紀ごろの人。確実な伝記は不明。ただ寒山の詩の語るところでは,寒山は農家の生れだったが本を読んでばかりいて,村人にも妻にも疎まれ,家をとび出して放浪の末に天台山に隠棲した。既成の仏教界からも詩壇からもはみ出した孤高な隠者として300余首の詩を残した。拾得と豊干(ぶかん)とは,寒山伝説がふくらむ過程で付加された分身と認められる。その詩は独自の悟境と幽邃(ゆうすい)な山景とを重ね合わせた格調高い一群のほかに,現世の愚劣さや堕落した僧侶道士を痛罵した一群の作品があり,ともに強固な自己疎外者としての矜持(きようじ)を語っている。9世紀末から禅僧の間で愛好され,これに擬した詩を作ることも流行した。一方で画題としても好んで取り上げられたが,そこで強調される奇矯な風狂ぶりは,詩そのものから得られるイメージとはまったく別もので,それは正体不明な閭丘胤(りよきゆういん)の〈序〉からの発想である。
執筆者:

寒山・拾得が画題として描かれるようになるのは,宋代以降で,禅僧や文人たちによってである。日本でも鑑賞絵画として作られた。ほうき,筆,巻物,書状を手にした蓬髪弊衣,草履またははだしの僧2人が笑い,あるいは問答するさまを単幅または双幅に分けて描く。梁楷顔輝因陀羅の古渡りの中国画,周文,明兆,霊彩,蕭白,蘆雪,鉄斎などの作品が名高い。
執筆者:



寒山拾得 (かんざんじっとく)

新舞踊劇。坪内逍遥作。長唄。1911年9月文芸協会私演場で初演。作曲4世吉住小三郎・3世杵屋(きねや)六四郎(2世稀音家浄観)。振付2世藤間勘右衛門。雪舟筆の墨絵掛物から抜け出したという設定で,唐の仙人寒山と賢士拾得の枯淡洒脱な生活ぶりを描く。作者はこれを《お七吉三》と同時上演し,雪舟の筆意と師宣の浮世絵画趣を対照的に見せるのを本意とした。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「寒山拾得」の意味・わかりやすい解説

寒山・拾得
かんざんじっとく

中国、唐代の禅僧。従来は唐代初期の人とされていたが、最近の研究では、二人とも実在の人物であるとして考えた場合、8世紀ごろ(盛唐から中唐の時期)に生きていたのであろうとされている。雲水の豊干(ぶかん)(生没年不詳)と三人で天台山(浙江(せっこう)省)国清寺(こくせいじ)に出入りし、ぼろをまとい、台所に入り込んでは僧たちの残飯を食していたという。三人をあわせて三隠、三聖と称する。この三人のことを記すのは、閭丘胤(りょきゅういん)の『三隠詩集』序であるが、閭丘胤は架空の人物であって、実際はだれなのか不明。閭丘胤に語ったという豊干の言によれば、寒山は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の化身、そして拾得は普賢(ふげん)菩薩の化身であったという。森鴎外(もりおうがい)の小説『寒山拾得』は、この閭丘胤の序文をもとに記されたものである。

 三人の詩は、『三隠詩集』(寒山子詩集)に集められているが、寒山の詩というのがもっとも多くを占める(314首)。寒山の詩は、民衆を対象にした教訓的なものや禅の偈(げ)に似たものなどが多いが、なかには寒山にまつわる伝説をうたうものもあり、寒山伝説に関連して、禅僧や民衆の間でうたわれたものが、「寒山詩」としてまとめられたものであろう。作品はすべて五言古詩である。

 寒山・拾得は、宋(そう)代、禅の流行とともに愛好され、しばしば禅画の画題とされた。現存する寒山・拾得の図では、顔輝(がんき)(東京国立博物館)、可翁(かおう)(相国寺竜光院)、周文(東京国立博物館)、明兆(みんちょう)(東福寺)、海北友松(かいほうゆうしょう)(妙心寺)の作などが知られている。

[鈴木修次 2017年1月19日]

『入矢義高注『中国詩人選集5 寒山』(1958・岩波書店)』『入谷仙介・松村昂編『禅の語録13 寒山詩』(1970・筑摩書房)』



寒山拾得
かんざんじっとく

森鴎外(おうがい)の短編小説。1916年(大正5)1月号の『新小説』に発表。「寒山子詩集序」を材料とした、鴎外最後の歴史小説。唐代の官吏閭丘胤(りょきゅういん)が、豊干(ぶかん)という托鉢(たくはつ)僧の示唆で、天台山国清寺(こくせいじ)に赴き、寺の厨(くりや)で、拾得と寒山に会ったはよいが、恭しく正規の名のりをあげて、笑い飛ばされる話。世俗の権威主義、価値観を否定し、裸の人間それ自体の尊厳を象徴化した、鴎外短編中の逸品である。鴎外の退官直前の作品で、閭丘胤には、それまでの官吏鴎外自身も託されているとみられる。

[磯貝英夫]

『『山椒大夫・高瀬舟 他四編』(岩波文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寒山拾得」の意味・わかりやすい解説

寒山拾得
かんざんじっとく
Han-shan Shi-de

中国,唐の伝説上の2人の詩僧。天台山国清寺の豊干禅師の弟子。拾得は豊干に拾い養われたので拾得と称した。寒山は国清寺近くの寒山の洞窟に住み,そのため寒山と称したといい,樺皮を冠とし大きな木靴をはき,国清寺に往還して拾得と交わり,彼が食事係であったので残飯をもらい受けていた。ともに世俗を超越した奇行が多く,また多くの詩を作ったという。しかし,これらの事績はすべて,天台山の木石に書き散らした彼らの詩を集めたとされる『寒山詩集』に付せられた閭丘胤 (りょきゅういん) 名の序,および五代の杜光庭の『仙伝拾遺』に記された伝説に発するもので,寒山,拾得の実在そのものを含めて真偽のほどは確かめがたい。後世に禅僧などが彼らのふるまいや生活に憧れ,好画題として扱うことが多かった。顔輝 (がんき) ,因陀羅などに作品があり,日本でも可翁,明兆,松谿などが描いた。その詩は『寒山詩集』に寒山のもの約三百余首,拾得のもの約五十首を収め,すべて無題である。自然や隠遁を楽しむ歌のほか,俗世や偽善的な僧を批判するもの,さらに人間的な悩みから女性の生態を詠じたものまで,多彩な内容をもち,複数の作者を推測することもでき,さらにその成立もいくつかの段階を経ているとも考えられている。

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百科事典マイペディア 「寒山拾得」の意味・わかりやすい解説

寒山拾得【かんざんじっとく】

中国,唐代の脱俗的人物で詩人の寒山と拾得のこと。在世年代は不詳。寒山は幽窟に住み,国清寺に出入して残飯をもらい,拾得と交わったとされているが,拾得は寒山伝説がふくらむ過程で付加された分身と認められる。奇行ぶりが強調されているが,仏教の哲理に通じ,その脱俗の境地は中国・日本とも伝統的な画題となった。因陀羅可翁海北友松らの作が有名。
→関連項目顔輝寒山詩道釈画

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世界大百科事典(旧版)内の寒山拾得の言及

【国清寺】より

…寺域は天下四絶の一つに数えられ,寺前に豊干橋(ぶかんきよう)がある。唐代,寒山・拾得と塵外の交りをしたとされる禅僧の名にちなむものである。この三賢説話は,《寒山子詩集》の閭丘胤(りよきゆういん)の序に見えるのがおそらく最も早い時期のものであるが,8世紀以後に禅宗諸派,特に牛頭(ごず)禅が独自の法灯を主張し始めることと,本説話形成とは関連すると思われる。…

※「寒山拾得」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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