朝日日本歴史人物事典 「吉備内親王」の解説
吉備内親王
生年:生年不詳
草壁皇子と妃阿閉皇女(元明天皇)の皇女。長屋王の妃。文武・元正天皇と同母。「北宮」は別称か。霊亀1(715)年,長屋王の子(三世王)のうち内親王の生んだ男女は,母方の血筋を重んじて特に二世王とされた。神亀1(724)年,聖武即位に際し二品に叙される。祖父(天智,天武),母,兄,姉が天皇という皇位の至近距離にあり,長屋王(天智,天武の孫)との間の子は有力な皇位継承資格者だった。そのことが悲劇を招く。天平1(729)年,長屋王謀反という偽りの密告により邸宅は兵に囲まれ,王は自尽,内親王と4人の男子は首をくくった。藤原不比等の娘の生んだ子らは難にあわず,事件後ただちに内親王は無実,長屋王の親族,子孫はみな許すとされたことは,事件の狙いが王と内親王およびその子らの抹殺にあったことを明白に物語る。半年後に光明子が立后,藤原氏は目的を果たした。近年,平城宮近くの一等地から「吉備内親王大命」「長屋親王宮」などの木簡が多数出土,ふたりの邸宅跡と判明。夫婦がそれぞれに家政機関を持ち,協力して生活を営んでいた実態が明らかになった。長屋王の親族や他の妻との関係とともに,元明,元正との関わりも大きく,内親王の邸宅に結婚により長屋王が同居していたとの説もある。いわゆる「長屋王願経」にみえる「長屋殿下」の語と「北宮」の署名にも,ふたりの緊密な結びつきがうかがえる。<参考文献>永井路子「長屋王邸に異議あり」(『別冊文芸春秋』188号)
(義江明子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報