吉浦村
よしうらむら
[現在地名]門前町吉浦
矢徳荻平村の西、日本海に面する丘陵に立地。現在猿山灯台のある猿山岬がある。中世は志津良庄の内。大永元年(一五二一)から天文五年(一五三六)頃と推測される
渓和尚志津良庄年貢帳(棘林志)に「吉浦」分として一千六五六束の田地がある。貞享二年寺社由緒書上に天正八年(一五八〇)志津良庄の代官温井慶宗が吉浦観音堂に田地を寄進したとあるが、天文八年の誤記と考えられる。なお「舳倉島旧記」に永禄一二年(一五六九)筑前国上座郡(現福岡県)の漁人が当地や皆月浦のほか羽咋郡赤住浦(現志賀町)などへ来て漁業を営んだとある。
吉浦村
よしうらむら
[現在地名]鴨川市江見吉浦
太夫崎村の南西に位置し、伊南房州通往還が村内を通る。江戸時代は朝夷郡に属していた。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高一二一石余(うち田方七七石余)、里見氏直轄領。寛永一〇年(一六三三)に旗本保科領となった。正保郷帳では高一一三石、うち田方八六石余・畑方は二六石余。慶安元年(一六四八)飯野藩保科氏領となり、寛文元年(一六六一)に別家の保科氏に分与されるが、元禄九年(一六九六)収公され、翌年旗本京極領となる。
吉浦村
よしうらむら
[現在地名]温泉津町福波大字吉浦
福光本領の南に位置し、西は日本海に面し、吉浦湊がある。天文二四年(一五五五)一二月九日の毛利隆元書状(吉川家文書)に「吉浦」とみえ、隆元は当地を吉川治部少輔(元春)に与えている。永禄五年(一五六二)三月二六日には吉川経安に吉浦の代りとして福光郷本分・同湊などを与えている(「毛利元就・同隆元・吉川元春連署充行状写」石見吉川家文書)。経安領であった吉浦はこのとき福屋隆兼に与えられたようである(同六年正月一六日「吉川元春書状」閥閲録)。しかし翌六年一月二二日、児玉若狭守(就秋)に「波積之内吉浦」が与えられ(「毛利元就知行充行状」同書)、同九年以前に児玉弥七郎元重に譲与されたと思われる(一二月二八日「毛利輝元書状」同書)。
吉浦村
よしうらむら
[現在地名]村上市吉浦
東の鍋倉山と三額山との谷間より西へ流れる普川の右岸にあり、西は日本海に臨む。北は早川村、南は柏尾村に接する。出羽へ抜ける浜通が通る。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「大国但馬分吉浦村 上」とみえ、本納四二石一斗五升・縄高五二石六斗二升三合、家一八軒、「柏尾村ヨリ吉浦ヘ五里」とある。正保国絵図では高一五〇石余。村上藩領に属する。宝永六年(一七〇九)幕府領となり、幕末には米沢藩預所。
吉浦村
よしうらむら
[現在地名]滑川市吉浦
早月川が形成した新扇状地の末端部に位置し、西は笠木村、北は富山湾に臨む。南の中村との境を北陸街道が通る。往古は白砂青松の海岸であったといわれる(早月加積郷土誌)。正保郷帳では高一〇四石余、田方六町六反余・畑方三反余、新田高二四石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高一〇一石、免四ツ八歩、小物成は鱒役一匁・鮎役一匁(三箇国高物成帳)。
吉浦村
よしうらむら
[現在地名]豊浦町吉浦
真木山の北西麓に位置し、北は飯塚村、南は竹俣万代村。慶長三年(一五九八)頃の新発田御領内高付帳(新発田市史資料)に二千二八五石二斗九升とある。同一〇年の給知方村々高目録(同資料)では毛付三〇二石二斗余・荒三一三石五斗余。同一五年頃の給知方ほど役帳(同資料)によれば計二石三斗の炉役が一五軒に課されている。
吉浦村
よしうらむら
[現在地名]上越市吉浦
鍋ヶ浦村の西に位置し、北陸道が通る。春日山城主堀秀治時代、当地に口留番所が置かれていたと伝える。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 