大興寺(読み)だいこうじ

日本歴史地名大系 「大興寺」の解説

大興寺
だいこうじ

[現在地名]美里町広木

南に大興寺池をひかえた丘陵上に位置する。伏龍山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。「風土記稿」によれば、創建は天徳年間(九五七―九六一)頃で、当初は慶徳山大光寺と称した。その後廃寺となり、嘉慶元年(一三八七)小倉左中将元英が陽岳元照を招いて再興し、伏龍山大興寺と改めたという。小倉元英は当地に隠棲していた京都の公家で、大光寺の荒廃を嘆いて自ら開基となり、平等山成身じようしん(現児玉町)から元照を開山として迎えたと伝える。

大興寺
だいこうじ

[現在地名]山本町辻

菅生すがう神社南方の菩提ぼだい山北麓にある。真言宗善通寺派。小松尾山不動光院と号し、本尊は薬師如来。四国霊場八十八ヵ所第六七番札所。御詠歌は「植えおきし小松尾寺をながむれば法のおしえの風ぞふきける」。小松尾山不動光院大興寺遺跡略記によれば弘仁一三年(八二二)空海の創建と伝える。当寺の北西一キロに奈良―平安期創建と推定される古代寺院跡があり、当寺の旧跡という。古代―中世にわたり天台・真言の二流を伝え、建治二年(一二七六)八月三日の空海御影裏書に奈良東大寺末とある。最盛期は七堂伽藍を整え、天台一二坊・真言二四坊を擁したという(前掲略記)

大興寺
だいこうじ

[現在地名]揖斐川町大光寺

大光寺だいこうじ集落の北西部にある臨済宗妙心寺派寺院。本尊は釈迦如来坐像。延文元年(一三五六)土岐頼雄が竜秋周沢を開山として創建した。頼雄は守護頼康の弟で、揖斐氏を称する。康安二年(一三六二)頼雄(沙弥祐康)は揖斐庄内の「大隆寺田畠」や同散在田畠など五ヵ所を当寺に寄進している(三月二七日「沙弥祐康寄進状写」大興寺文書)。このほか貞治五年(一三六四)四月二七日・永和元年(一三七五)一一月一五日にも寄進している(同文書)。嘉慶三年(一三八九)二月七日には揖斐庄三輪みわ保内の犬丸名などが当寺領とすべきことが足利義満によって認められた(「足利義満御教書写」国会図書館蔵集古文書)

大興寺
たいこうじ

[現在地名]前橋市川原町

川原かわはら町の中央、字だいにあり、松栄山(龍石山)と号し、天台宗、本尊薬師如来。寛文七年(一六六七)の創立で、松平氏二代直恒により命名され、開山は教山。松平氏の転封に従い、前橋町の柳原やなぎはらにおいては東照宮別当祈願所として藩主松平氏より二〇〇石を賜る。文久三年(一八六三)松平直克より一〇〇石を加増される。

大興寺
だいこうじ

[現在地名]相良町西萩間

萩間はぎま川右岸の山麓にある。龍門山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。創立年代は不詳であるが、往古は真言密教の道場であった。応永二一年(一四一四)能登総持寺二世の四世の法孫宗彭が当地に来て草庵を結んだとされ、宗彭を開基、大徹宗令を開山とする。江戸時代には総持寺の末寺で、末寺二四ヵ寺を擁した(遠江国風土記伝)。「遠淡海地志」には山号として金竜山と龍門山の二つが記され、朱印寺領九石五斗。寛延三年(一七五〇)以降焼失したり、安政地震で瓦解したりしたが、その度に再建され旧観に復したという。

大興寺
だいこうじ

[現在地名]石鳥谷町大興寺

大興寺集落西部の奥羽山脈の麓に位置し、万畳山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。「邦内郷村志」によれば、開山梅山聞本は応永二四年(一四一七)当寺で没したという。また稗貫氏の菩提寺で、天文二三年(一五五四)寺領七〇石を受け、寛保二年(一七四二)には盛岡藩主南部利視より黒印一五石を下賜されたと伝える(石鳥谷町史)

大興寺
だいこうじ

[現在地名]中山町中山

中山の福元ふくもとにある。仏日山と号す。曹洞宗。本尊釈迦牟尼仏。正保二年(一六四五)に創建、開山は玉峰玄台。延享元年(一七四四)再建の鐘楼堂、安永九年(一七八〇)に再建された中国様式の山門や毘沙門堂などの伽藍がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「大興寺」の解説

大興寺

香川県三豊市にある寺院。菩提山の麓に位置する。真言宗善通寺派。山号は小松尾山、院号は不動光院。本尊は薬師如来。四国八十八ヶ所霊場第67番札所。「小松尾寺」とも呼ばれる。

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