出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
埼玉県比企(ひき)郡吉見町に所在する横穴墓群。凝灰岩によって形成された標高50~60メートルの市野川に面する丘陵斜面には、現在237基の横穴が蜂の巣(はちのす)状に開口している。古くからその存在は知られていたが、1887年(明治20)に坪井正五郎(しょうごろう)によって発掘調査されている。当時古代人の穴居住居跡として報道され、一躍有名となったが、後の調査で古墳時代後期の横穴墓群であることが判明した。横穴の構造は羨門(せんもん)・羨道・玄室より形成されるが、各部の簡略化が認められたり、羨道部が省略されたものもあり一様ではない。玄室には、壁に接して棺座を設けているものもあり、なかには2、3個の棺座をもつものがある。遺物には人骨をはじめ、勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、小玉(こだま)、金環(きんかん)、直刀(ちょくとう)、鉄鏃(てつぞく)、刀子(とうす)、須恵器(すえき)、埴輪(はにわ)などの副葬品がある。1923年(大正12)に国の史跡に指定された(指定名称は「吉見百穴(ひゃっけつ)」)。なお、山裾(やますそ)の横穴はヒカリゴケ発生地として国の天然記念物に指定されている(指定名称は「吉見百穴(ひゃくあな)ヒカリゴケ発生地」)。
[後藤喜八郎]
『金井塚良一著『吉見百穴横穴群の研究』(1975・校倉書房)』
埼玉県比企郡吉見町北吉見に所在する横穴墓で,現在230基ほどの横穴が開口している。古墳時代末(7世紀)の代表的な横穴墓群である。古くからその所在は知られていたが,1887年坪井正五郎が発掘調査し,コロボックルの住居跡として発表して以来,住居説,墳墓説の論争の舞台となり,一躍〈吉見の百穴(ひやくあな)〉として有名になった。遺跡は前方に市野川流域の大沖積地帯をのぞむ第四紀凝灰岩層からなる吉見丘陵の急斜面を利用してうがたれている。羨道部は高さ1.5m,横幅1mほどの方形を呈し,遠方からみるとその露出状況はハチの巣のようにみえる。玄室は高さ1.5m,横2m,奥行2~3mの規模のものが多く,左右または奥壁に沿って棺座が設けられており,天井はドーム形をしたものが多い。かつて直刀,金環,玉類,須恵器,埴輪などが出土したといわれる。現在は観光地として知られ見学者も多い。
→横穴
執筆者:柳田 敏司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
埼玉県吉見町にある古墳後期の横穴墓群。市野川に臨む凝灰質砂岩の崖面に営まれ,200基をこえる横穴墓が確認された。1887年(明治20)坪井正五郎が地元の支援をうけて発掘。この調査を契機に「穴居説」と「墓穴説」の論争が行われ,学史的に著名。副葬品には,装身具類・武具類・土器類・円筒埴輪などがあり,6世紀の終りには横穴墓が営まれ始めていることが知られる。国史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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