根小屋村(読み)ねごやむら

日本歴史地名大系 「根小屋村」の解説

根小屋村
ねごやむら

[現在地名]堀之内町根小屋

田戸たど村の西。南の魚野うおの川対岸は堀之内村。川東の中心集落で、舟場ふなば新田・寺村てらむら本村ほんそんたて桜又さくらまた三明塚さんみようづかの集落からなる。対岸堀之内村と和長島わながしま村との間に河口が開ける田河たがわ川が魚野川へ流入する対岸に位置するため、土地が浸食されて村が退却しており、左岸の和長島村・徳田とくだ村には当村の地籍が錯綜して残る。東方要害ようがい山上に根小屋城があり、旧記(堀之内町史)の伝えでは、寛喜三年(一二三一)の飢饉に「乱民蜂起して、根小屋城下七百五十戸、人口三千七百九十余人の中大方殺害せらる」とある。立には館があったという。舟場新田に堀之内村への渡船場がある。小出島こいでじま(現小出町)から当地を経て竜光りゆうこうひう(現小千谷市)への道があったことが、元和三年(一六一七)の堀直寄の先触状(小出郷文書集成)で知られる。


根小屋村
ねごやむら

[現在地名]下仁田町西野牧にしのまき

南流するかぶら川沿いに散在する根小屋・小出屋こでや赤岩あかいわ滑岩なめいわ清水沢しみずさわなどの集落よりなり、同川に沿って下仁田道が通る。北は黒川くろかわ村、西は矢川やがわ村、南は本宿もとじゆく村、東は高石たかいし峠を越えて漆萱うるしがや村と接する。近世はおおむね幕府領。寛文郷帳の高一六九石余はすべて畑方。文禄二年(一五九三)西牧さいもく関所が設置されると、当村の治郎左衛門は本宿村文吉などと三人で関所番頭役を仰せ付けられ、当村名主は同関所の抜道とされた漆萱村と結ぶ山道の監視責任者となり、西牧領以外の者の通行を監視した(元禄一七年「関所抜道禁止願」市川文書など)


根小屋村
ねごやむら

[現在地名]高崎市根小屋町

からす川右岸の低丘陵地に位置し、緑野みどの郡に属する。北は川を挟んで群馬郡下佐野しもさの村、東から南にかけては山名やまな村、西北は丘陵伝いに片岡かたおか寺尾てらお村。「上毛古墳綜覧」には柳沢やなぎさわに一、下石堂しもいしどうに一、上石堂に三の円墳が載る。また、白山神社裏には埴輪窯跡の存在も確認されている。根小屋とは山の根の小屋の意味で、山城の麓に営まれた武士団の平時の集落からつけられた名称である。これは武田信玄が元亀元年(一五七〇)に築城したと伝える根小屋城(関八州古戦録)に由来すると考えられ、当地は築城以前は山本里やまもとのさとと称されたという。


根小屋村
ねごやむら

[現在地名]八郷町根小屋

恋瀬こいせ川左岸にあり、東に竜神りゆうじん山を負い、西は川を隔てて片野かたの村、北は下林しもばやし村。もとは片野村と同村と伝え、鎌倉時代に小田氏の一族八田将監が当地に館を構えて支配したといわれる。永禄年間(一五五八―七〇)に武蔵国岩槻いわつきから移った太田資正が新たに築城、天正一九年(一五九一)資正が病死した後は石塚いしつか(現東茨城郡常北町)から石塚氏が移った。同氏は慶長七年(一六〇二)佐竹氏秋田転封に従い、その後に滝川雄利が新治郡内に二万石を給されて移った。寛永二年(一六二五)雄利の嫡男正利に継嗣がないことを理由に一万八千石を収公され、片野藩は廃藩となった(寛政重修諸家譜、新編常陸国誌)


根小屋村
ねごやむら

[現在地名]吉見町北吉見きたよしみ

流川ながれかわ村の北に接し、西は市野いちの川を隔てて比企郡松山町(現東松山市)に続く。村域は一部に市野川の低地があるほかは吉見丘陵が占める。地内の同丘陵の最南端に松山城があり、当地は同城の根小屋集落であったと思われる。根古屋とも記した。地内には暦応三年(一三四〇)・正長二年(一四二九)の板碑がある。天正六年(一五七八)八月一六日の上田長則印判状写(武州文書)に「松山根小屋足かる衆」とみえ、松山城主上田長則は、当地足軽衆や松山本郷まつやまほんごう宿(現東松山市)中の町人らに対して茂呂もろ(現毛呂山町)よりの兵糧や馬の飼料などの買取に応じないよう命じている。


根小屋村
ねごやむら

[現在地名]糸魚川市根小屋

根知ねち川がひめ川に合流する地。集落背後の南側はじよう(五二五・二メートル)の山麓である。城山へ至る途中までまっすぐな道は立川中道たてかわなかみちと称する。村名は根知城の麓の館地の遺称である。東隣の栗山くりやま村との山論の際に当村から出された書付によると、根知谷は古くより西分・東分・根小屋村の三つに分れ、当村は御城下であったとあり、慶長九年(一六〇四)堀下総守のとき、城が清崎きよさきに移ると、城山・御林・野山は当村に下付されたと記している(糸魚川市史)


根小屋村
ねごやむら

[現在地名]津久井町根小屋

長竹ながたけ村の東に位置し、北は太井おおい村・中野なかの村。元和二年(一六一六)長竹村より分村。「風土記稿」に太井村から分れるとあるのは誤り(正保二年「津久井領郷村水帳請取帳写」小川文書)津久井城(城山)の南側に開けた村である。

近世は初め幕府直轄領、寛文四年(一六六四)久世(のち下総関宿藩)領、貞享元年(一六八四)幕府直轄領、文政一一年(一八二八)小田原藩領。この間寛永(一六二四―四四)の頃、代官守屋氏二代の陣屋が置かれ(風土記稿)、また関宿藩久世氏もここに陣屋を置いた。元禄年間津久井領諸色覚書(県史六)によれば高三〇六石余、田二町八反余、畑五二町二反余。


根小屋村
ねごやむら

[現在地名]和島村根小屋

三瀬さんぜ村の南東、北は北野きたの村、西は荒巻あらまき村、南は塩之入しおのいり峠越で本与板もとよいた(現与板町)正保国絵図では高一〇七石余で幕府領。慶安二年(一六四九)村上藩領となる。貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳では高一一三石八斗余。宝永六年(一七〇九)一時幕府領となるが、同七年白河藩松平氏領となる。「白川風土記」では戸数二二。字五郎右衛門田・字砂場など三ヵ所に溜井があり用水とする。丘陵上に狭霧さぎり城ともよばれる根小屋城跡があり、力丸中務の居城を伝える。


根小屋村
ねごやむら

[現在地名]館山市上真倉かみさなぐら

館山町の南、しろ山の東麓にあり、近世の郷村帳類では真倉村のうちで高付されていた。根古屋村とも記し、中世館山城の根小屋集落であったことが、村名の由来ともいう。町根小屋まちねごやと上根小屋に分れていた。寛政五年(一七九三)の真倉村明細帳(島田家文書)によれば高二二九石余、反別は田二町八反余・畑二三町二反余、納米二二石余・永二四貫四八二文、家数二九、男四五・女六三・僧三・道心一、牛一。神明宮・牛頭天王宮・御霊権現宮などを祀っていたが、いずれも上真倉村と共同の氏神で、諸色は同村と相談で決めていた。


根小屋村
ねこやむら

[現在地名]二宮町根小屋

小貝こかい川を挟み、反町そりまち村の南方対岸に位置する。南流する小貝川は常陸国小栗おぐり(現茨城県真壁郡協和町)の山地西端にあたり、西に向きを変え、当村付近でさらに北方に反転屈曲する。南は小栗村の城山につづき、地名はかつて小栗城の根小屋集落であったことにちなむという(物部村郷土誌)


根小屋村
ねごやむら

[現在地名]麻生町根小屋

雁通がんづう川左岸にあり、東は宇崎うざき村。中世は相賀おうが郷に属し(新編常陸国誌)、戦国末期に佐竹氏領となったが、江戸時代は旗本領で、文政一一年(一八二八)の常州行方郡最寄四拾三ケ村組合議定連印(関戸家文書)には、久保重三郎知行所三一四石余と記される。


根小屋村
ねごやむら

[現在地名]大田原市南金丸みなみかねまる

東流するあいノ川に沿い、集落は微高地にある。東は田中たなか村、南は南金丸村。天正一八年(一五九〇)大関氏が豊臣秀吉より安堵された本領のうちに「南金丸 根小屋之内」がみえ、一五八石二升(「黒羽藩領知高書上」宇都宮大学附属図書館蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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