周防鋳銭司跡(読み)すおうちゆうせんしあと

日本歴史地名大系 「周防鋳銭司跡」の解説

周防鋳銭司跡
すおうちゆうせんしあと

[現在地名]山口市大字鋳銭司 四辻

周防灘に突き出た秋穂あいお半島基部の東西に連なる鋳銭司すぜんじの低地帯は、花崗岩丘陵の侵食谷に形成された洪積台地とその前面の沖積段丘や干拓地からなるが、鋳銭司跡は南面する沖積段丘に立地する。

鋳銭司とは、奈良・平安時代の官営の鋳銭所で、「和名抄」に「鋳銭司樹漸乃司」とあるから、古くは「ジュゼンノツカサ」と読んだらしい。鋳銭司の名は、「日本書紀」持統天皇八年三月二日条に「直広肆大宅麻呂・勤大弐台忌寸八島・黄書連本実等を以て、鋳銭司に拝す」とあり、さらに「続日本紀」文武天皇三年一二月二〇日条に「始置鋳銭司、以直大肆中臣朝臣意美麻呂長官」、和銅元年(七〇八)二月一一日条に「始置催鋳銭司、以従五位上多治比真人三宅麻呂之」とみえる。持統・武朝には役人任命のみで、和銅元年から貨幣の鋳造を始めたとみるべきであろう。鋳銭司は近江・河内山城長門・周防などに設置されたが、平安時代に入ると長門・周防が主となり、九世紀中期からは、ほとんど周防鋳銭司が唯一のものとなった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「周防鋳銭司跡」の解説

すおうのちゅうせんしあと【周防鋳銭司跡】


山口県山口市鋳銭司(すぜんじ)にある貨幣製造所。鋳銭司とは、古代における官営の銅銭製造所である。周防鋳銭司は全国にある鋳銭司の中でも最も長期間鋳造が行われ、平安時代の820年代から950年(天暦4)ごろにかけては唯一の貨幣鋳造所であった。ここでは、富寿神宝(ふじゅしんぽう)から乾元大宝(けんげんたいほう)までの8種類を鋳造したと考えられる。本格的な調査が開始されたのは1966年(昭和41)で、その後1971年(昭和46)から翌年にかけても行われ、倉庫群・井戸・炉の跡や工房と推定される遺構などとともに、大量の鞴口(ふいごぐち)・坩堝(るつぼ)・土器・木器・木簡・銅銭・古瓦片などが発見され、鋳銭司跡は平安初期のものであることが確認された。古代貨幣史上、また古代国家の経済のしくみを知るうえで重要であるとして、1973年(昭和48)に国の史跡に指定された。山口県内には貨幣鋳造所跡として、国史跡の長門鋳銭所跡(下関市)もある。現在は跡地標識が立っているのみであるが、遺物は鋳銭司郷土館に保管・展示されている。JR山陽本線四辻駅から徒歩約12分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「周防鋳銭司跡」の意味・わかりやすい解説

周防鋳銭司跡
すおうすぜんじあと

山口市鋳銭司にある平安時代の周防鋳銭司の遺跡。1909年(明治42)水田下から鞴口(ふいごぐち)がみつかり、66年(昭和41)一部の発掘調査が行われた。71年、工場誘致の可否を決める予察調査の結果、鋳銭関係の遺跡の埋存が明らかになり、翌年、遺構の分布範囲確認調査により官営の鋳銭所跡であることが確定した。遺跡は1辺約200メートルと考えられ、南面する沖積段丘に立地している。工房、炉、井戸、掘立て柱建物などの遺構や、「長年大宝」と鋳(い)損じの銭貨をはじめ、印影粘土、木簡、鞴口、坩堝(るつぼ)、鉱滓(こうさい)などの遺物が出土し、保存良好な鋳銭司跡として73年国の史跡に指定された。

[小野忠凞]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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