日本古代における銭貨鋳造官司。令外の官。常置の官ではなくその置廃は複雑な経過をたどった。初見は《日本書紀》持統8年(694)3月乙酉条の任命記事。これと《続日本紀》文武3年(699)12月庚子条に見える〈鋳銭司〉とは,ともに和同開珎発行以前にあたる。ついで708年(和銅1)和同開珎の発行にそなえてその鋳造を督促する〈催鋳銭司〉が設置され,これと前後して河内に〈鋳銭司〉が置かれ,鋳造の主柱となった。この河内〈鋳銭司〉は《続日本紀》和銅2年8月乙酉条に見えるのみで,所在地も明らかでないが,726年(神亀3)の〈山背国愛宕郡出雲郷雲下里計帳〉にみえる〈鋳銭寮〉がその後身と考えられる。次に《続日本紀》天平2年(730)3月丁酉条に〈長門鋳銭〉とあるが,これは長門国所在の〈鋳銭司〉の意味で,〈播磨国郡稲帳〉に見える〈鋳銭司〉はすべてこれにあたると考えられる。その所在地は下関市長府町覚苑寺周辺である。次に735年閏11月に〈鋳銭司〉が置かれ,782年(延暦1)4月に廃されている。京都府木津川市の旧加茂町銭司(ぜず)の遺址がこれに比定される。以上の〈鋳銭寮〉,長門の〈鋳銭司〉,加茂の〈鋳銭司〉の時期的平行関係は明らかでない。加茂の〈鋳銭司〉存続期間中の神護景雲年間(767-770)に〈田原鋳銭長官〉の任命記事が見え,〈田原鋳銭司〉の存在が知られるが,760年(天平宝字4)の〈造金堂所解〉に見える〈登美銭司村〉はこれに関係するものであろう。〈田原鋳銭司〉の所在地は,この登美=富雄に近い生駒市と四条畷市にまたがる南北・上下田原付近が適当である。ついで790年10月に〈鋳銭司〉が置かれ,816年(弘仁7)7月に廃止されている。818年3月には長門国司を改組して〈鋳銭使〉が置かれたが,825年(天長2)4月に廃され,かわって周防に〈鋳銭司〉が設置され,以後この周防の〈鋳銭司〉が長く存続したが,940年(天慶3)藤原純友によって焼打ちにされた。長門の〈鋳銭使〉の所在地が8世紀の長門の〈鋳銭司〉と同じか否かは明らかでない。周防のものは山口市鋳銭司(すぜんじ)字大畠にあり,発掘調査が実施された。なお9世紀中ごろには〈葛野鋳銭所〉が周防の〈鋳銭司〉と並置されていた。
鋳銭司の職員には,長官,次官,判官,主典,史生,将領,医師,鋳銭師,造(作)銭形師,造銭形生,鋳手,鉄工,木工などがいたことが確かめられるが,その定員の増減はかなり頻繁であった。8世紀の鋳銭司は,長門を除いて畿内に置かれており,採銅地から精錬した銅を運んで鋳造していたが,9世紀では〈葛野鋳銭所〉をのぞいて長門,周防の産銅国にあり,備中,長門,豊前などから銅鉛の供給をうけ(《延喜式》),製品の銭を中央へ運んでいた。9世紀に入ると,おもに地方豪族層の銅の私採と銅器の私鋳によって鋳銭司に入る銅は減少し,加えて備後,周防,長門,伊予,筑前,豊前,肥後などが負担することになっていた鋳銭費用も滞りがちとなり,鋳銭はしだいに困難となっていった。このことは新鋳銭の鉛含有量の増加にも反映している。
執筆者:栄原 永遠男
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日本古代の銭貨を鋳造した官司。「じゅぜんのつかさ」とも読む。令外官(りょうげのかん)。常置の官ではなく、置廃が頻繁であった。『日本書紀』持統(じとう)天皇8年(694)3月己酉(きゆう)条に初めてみえる。以後8世紀では、河内(かわち)(所在地不明)、長門(ながと)(下関(しものせき)市長府町覚苑寺(かくおんじ)周辺)、山背(やましろ)(京都府木津川(きづがわ)市加茂町銭司(かもちょうぜず))、田原(たばら)(奈良県生駒(いこま)市北田原・南田原から大阪府四條畷(しじょうなわて)市上田原・下田原にかけての地域付近)などに置かれた。ついで、790~816年(延暦9~弘仁7)の鋳銭司、長門国司を改組した鋳銭使(818~825)、周防(すおう)の鋳銭司(すぜんじ)(825以降)、山背の葛野鋳銭所(かどのちゅうせんしょ)(9世紀中ごろ)などが置かれた。9世紀になると、地方豪族層の私的採銅や銅器の私鋳、担当国司の怠慢により、鋳銭司の入手しうる銅と鋳銭費用が減少し、鋳銭事業はしだいに困難となっていった。
[栄原永遠男]
山口市南部の農村地区。旧鋳銭司村。『和名抄(わみょうしょう)』の八千(やち)郷の地で、中世文書にも「矢地里」とある。近世には西隣の枝郷の陶(すえ)を含めて鋳銭司村とよんだ。古代の銭貨を鋳造した周防(すおう)鋳銭司が置かれたことに由来する村名で、発掘調査の行われた鋳銭司跡の遺跡は国の史跡に指定されている。明治維新で活躍した大村益次郎の生誕地で、大村神社がある。JR山陽本線、国道2号が通じ、山陽自動車道山口南インターチェンジが設置されている。
[三浦 肇]
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…一の坂川のゲンジボタルは天然記念物である。市東部の大内に中国自動車道山口インターがあり,南部鋳銭司(すぜんじ)を山陽自動車道が通じる。また,市北部の仁保にはKDDの山口衛星通信所があり,さらに近年宇宙通信や日本国際通信も進出し,情報通信機能が集積しつつある。…
…飛鳥時代以後,造仏の盛行により鋳造技術も著しく進歩した。鋳工は畿内を中心に山陽道,大宰府等の各地に散在していたが,律令制下,大蔵省被官の典鋳司および鋳銭司,諸寺院の鋳物所などに組織された。しかし典鋳司は実質的には機能せず,728年(神亀5)内匠寮に併合される。…
…奈良・平安時代に主として鋳銭用の銅・鉛を採掘するため,産地に設けた官営の機関。長官が採銅使で9世紀後期に長門国採銅使海部男種麿,備中国採銅使弓削秋佐の名がみえ,秋佐はのち長門国採銅使と鋳銭司判官を兼任している。採銅所には使の下に銅手あるいは銅工(製錬工),掘穴手(坑夫)が所属し,また郡中の徭夫を徴集し,銅・鉛を採掘製錬した。…
…一方,石見の伊甘(いかむ)駅(現,島根県浜田市)で終わる山陰道と山陽道を連絡する小路が,石見から小川(現,阿武郡田万川町小川付近),宅佐(たかさ),阿武,埴田,参美(さんみ),三隅,由宇,意福(おふく),鹿野,阿津の駅を経て厚狭駅(現,厚狭郡山陽町付近)に合流した。鋳銭司(所)が国庁の西方(下関市長府町下安養寺)に設置され,〈和同開珎〉と〈富寿神宝〉が鋳造された。長門国は当時主要な銅産出国の一つで,採長門国銅使を任命したことがある。…
※「鋳銭司」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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