上之町(読み)うえのちよう

日本歴史地名大系 「上之町」の解説

上之町
うえのちよう

[現在地名]津山市上之町

みや川以東の丹後たんご山南麓に東西に連なる侍屋敷町。西は宮川、南は一部は林田はいだ溝を境として橋本はしもと町・林田町・勝間田かつまだ町・中之なかの町・西新にししん町・東新町など、東は林田村。丹後山中腹部と南の平坦部とに東西に二筋の林田溝が流れ、東新町の南の河崎かわさき村で吉井川に入る。山麓側の林田溝に沿って道があり、町はこの道を軸に南北に短冊形に区画されている。町の成立は慶長(一五九六―一六一五)初年と推定され、正保城絵図は西方の宮川から大隅おおすみ宮前の南北の通りである大隅小路までが東境で、元禄町絵図では町域は東に拡張されて東新町北裏まで屋敷になっている。正保城絵図では町の全域が足軽町と歩小性町で、西北の山寄りに鷹師たかし町、東端に瓦師屋敷が記される。元禄町絵図には扶持人屋敷・扶持人屋敷入組・無足中小姓以下扶持人屋敷などを記す。西の急坂の入道にゆうどう坂を北に下って、丹後山西麓の宮川沿いに北に延びる細長い片側の町は宮川屋敷と称され、正保城絵図にはみえず、元禄町絵図に扶持人と記され、享保町絵図ではいずれも組屋敷である。なお森家侍屋敷割帳(弓斎叢書)には下級藩士の居住区であったためか、上之町の屋敷割の記載はない。

上之町
かみのちよう

[現在地名]岡山市表町おもてちよう一丁目・天神町てんじんちよう

内堀と中堀に囲まれた郭内商業地域の町。南北に延びる両側町で、南は中之町、北は中堀を限り、向いは弓之ゆみの町。中の横町から北側中堀端は寛永城下絵図では福岡ふくおか町、慶安城下絵図では上之町となる。宇喜多氏時代に成立した町と考えられる。貞享元年(一六八四)の岡山町中御検地畝高地子帳によると町域は二町六反余で、うち一反余は御免地榎養雲屋敷。残り二町四反余の徳米は七五石余、口米は一石余。近世初期の区分は内町(市政提要)、中期以降は上組の頭町(岡山市史)。南から延びてきた山陽道は当町北部で左折山崎やまさき町へ向かう。

上之町
かみのちよう

下京区大宮通七条下ル

南北に通る大宮おおみや(旧大宮大路)を挟む両側町。

平安京の条坊では左京八条一坊四保一六町東側及び同二坊一保一町西側、平安中期以降は塩小路大宮大路北の地。平安京の官営市場である東市ひがしのいちの外町があった(拾芥抄)

寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「大みや上ノ丁」とあるが、寛文末洛中洛外大図では「半町」と「大宮上ノ町」に分れ、元禄末期洛中絵図以降の諸図では「大宮上ノ町」一町となる。「坊目誌」は、当町は七条以南の出屋敷上之町で、初め「大宮七条町」と称し、「官上京師地図」には「大宮上之町」と注されていたが略して「上之町」といわれるようになったとしている。

明治維新以前は下古京川西一六町組の新シ町で構成する七条出屋敷三町組に属し、軒役は三二軒役。

上之町
かみのちよう

上京区東三本木通丸太町上ル三丁目

かも川の西側に位置。町の西を南北に東三本木ひがしさんぼんぎ通が通る。

元禄四年(一六九一)京大絵図には「あきやしき」「三人衆」と記されるのみで町名はない。宝永五年(一七〇八)大火後の京都御所拡張の時、もと三本木町一丁目から三丁目まで(現京都御苑内)の人家を移して開町(町の様子は→三本木。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「三本木通 切通の上の通下ル 新三本木町」「其南 大上之町」とみえ、文政三年(一八二〇)の上京軒役付帳に現町名の「上之町」とみえる。

上之町
うえのまち

[現在地名]福江市武家屋敷ぶけやしき三丁目など

福江城の南西に位置する。「うえんまち」ともいう。寛永一一年(一六三四)福江直りに伴って町割が行われた武家屋敷町の一つで、同年の屋敷数九(五島編年史)。殿の居住する屋敷(御向屋敷)がある町で、町名はこれに由来するのであろう。延宝七年(一六七九)上ノ町の近藤・久保両屋敷地内に鷹部屋を設置しているが、当時の鷹匠は近藤家であった(「貞方四郎兵衛勝亮書留」同書)。文化一〇年(一八一三)六月、伊能忠敬の一行は福江に到着、上町の富田屋などに分宿した(伊能忠敬測量日記)

上之町
かみのちよう

[現在地名]沼田市 上之町

本町ほんちよう通の最も東にあり、南は馬喰ばくろう町、西はなか町。「沼田町記」延享五年(一七四八)写分では東西一一六間余で四二軒。中町・馬喰町と合せて六六四人・高五五三石余。町家は間口三間、竪三六間が普通であるが、東端材木町ざいもくちよう通との辻の家は、道が斜めに交差するため表口四間余、裏口一間余と台形で、また家屋が路面に平行ではなく、通りに面して隣家との間に三角形の空地ができた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報